はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

悩みの根っこに気づく

就活してた時、

言われたことはちゃんとやるけど

言われなければ何もできない君たちは

スマートスピーカー世代です

って言われたの

と、友達が言っていたのを聞いて以来、

私が直接言われたわけでもなく

ただその子の口から聞いただけなのに

何故かすごく悔しくて

その言葉をずっと根に持っていた。

 

 

 

私は日常の中で、悔しさを感じる瞬間が沢山ある。

怒るというよりも、ただ悔しくて

自分の感情が振り回されることが何度もある。

 

 

スマートスピーカー世代の話も、

友達の口からそれを聞いたの自体はもう2ヶ月くらい

前なのに、その言葉の真意について

ずっと考えていたのは、

 

 

酷い言い方だな、と思うと同時に、

「そうじゃない!」という強い思いが湧いていた、

つまり私がその言葉に猛烈な「悔しさ」を

感じていたからだ、と最近になって気づいた。

 

 

その「悔しさ」を掘っていくと、その中心には、

出会って数時間しか経ってないのに

その言い方をされたこと、

《世代》でひとくくりにされたこと、に対する

悔しさがあった。

 

 

でも、最近になってその言葉を自覚することが

多くなって、悔しさを感じなくなると同時に

その言葉を冷静に受け止められるようにもなった。

 

 

何か言われる前に気付ける人間になりたいし

フワッとした言葉で指導されても

その意図を的確に受け取って

次の行動に結び付けられるようになりたいけれど

一向にできるようにならないし、

 

こういうふうに思うことすら

いつも人から何かしらの影響を受けてからだな。

 

 

そう気付かされることが重なって、

あぁ、あの言葉は案外、的を射ていたのかも。

と思うようになった。

 

 

 

自分が思っている自分と人から指摘されたことが

かけ離れている(と感じる)と、

人は悔しさを感じるのだと思う。

 

 

本当の私はそんなんじゃないのに、って。

 

 

でも、悔しさを感じた部分を時間をかけて辿っていくと

確かに、そういう部分あるな、とか

指摘されたこと、案外当てはまってたかも、と

自分で認められるようになる。

 

 

あくまで私の場合だけど、

悔しさの根っこにあるものって、

「本当の自分」が伝わらなかった、

ということに対するモヤモヤだな、と気づいた。

 

 

 

 

昨日、心の穴に関する本を読んだのだけど、

私が最近すごくモヤモヤしてたのは、

心の穴を他人で埋めようとしてたからなんだ、

色んなことに悩む根の部分にあるものって

それだったんだなと気づいて、腑に落ちた。

 

 

心の穴を、他人で埋めようとしてるうちは

本当の意味では幸せにはなれなくて、

大切なのは、誰しもに心の穴があることを知って

どうかしようとすることでもなく、

抱えて生きていく、ということ。

 

 

 

何かに対して悔しさを感じた時、

そうじゃない!とただ反発し続けるだけでは

幸せにはなれなくて、

 

 

本当の自分が伝わらなかった、

と無意識に思ったんだな、と気づいた後に、

 

 

でも、「私が思う本当の自分」と

「相手が指摘する自分」のズレは、

本当に相手の認識が間違っていることだけから

発しているものなのだろうか。

 

と自分自身に問うていくことで

初めてその指摘が自分の実になるものとして

生きてくるのだと思う。

 

 

 

 

自分のこと、

どれだけ分かったつもりになってても

完全には分かり切ることはできなくて

気づくのはいつもソトからの刺激があってからで、

それがとてももどかしい。

 

 

 

でも、良いことだけじゃなくて

自分にとって耳にたこなこと

言ってくれる人がいるうちが人間

華なのかなと思うと

 

指摘してくれる人がいるのは有難いことだな、

とも思う。(思いたい。)

 

 

 

 

きっとそういうふうに思えるのは

それと同じくらい、

自分の悔しかったこととか悲しかったこと、

ほんとは心の中で叫んでいたことを素直に話せる

そんな人との関係があるからだ。

 

 

 

 

 

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まんまるな夕日。

たまには、自分の心も、こんだけ丸くなれたらなぁ

 

 

 

 

 

わたしたちが、投票する意味

期日前投票に行ったら、ある新聞社の方に

「ちょっとお話良いですか?」と話しかけられた。

 

大学に設置された投票所に朝イチで来ていたらしい

その人は、私を見つけるなりスススっと近寄ってきて、

どうして今日は選挙に来ようと思ったのか、

若者が政治に関心を持たない理由は何だと思うか、

どんな項目を重視して支持政党を決めたか、

根掘り葉掘り聞いてきた。

 

 

(まぁ、私が理想的な答えを言えなかったのか、

 結局記事にはならなかったんだけど…。笑)

 

 

 

 

 

「自分が投票しても何も変わらないから」

と考えて選挙に行かない人たちはおそらく沢山いて、

その気持ちは分からなくもないけれど、

 

 

自分が選んだ候補者や政党がマジョリティではなく

国民の総意として選ばれなかったとしても、

「自分の意思をきちんと持ち、表明すること」

が大切なのだと私は思う。

 

 

 

有難いことに、選挙における一票は、

誰しもに同じ価値がある。

 

生きてきた年月や性別、趣味や職業、思想、

経済力に関わらず、すべての人に同じ価値がある。

 

男だろうが女だろうが、

総理大臣だろうが学生だろうが、

芸能人だろうが一般人だろうが、

その一票の価値の重さは同じなのだ。

 

 

それはなぜか。

 

 

ひとりひとりの意思、そしてNOと言う権利は、

誰しもに等しくあるからだと思う。

 

 

自分や自分の大切な誰かが戦場に行くことになっても、

経済的理由で教育を受けられなくなっても、

社会保障を受けられないことが自己責任になっても、

原発が爆発して故郷が壊れても、

選挙に行ってなければ、私たちはそれについて

意見することはできない。

 

 

だって、選挙に行かなかったということは、

自分の意思を伝える権利を

自分から放棄した、ということだから。

 

 

自分の意思を伝える権利を自分から放棄した人たちが

機会やタイミングを逃してから

不満の如く言うことに耳を傾けてくれるほど、

社会はやさしくない。

 

 

発した言葉には責任が伴うことは

ずっと前から教えられてきたけれど、

「言わなかったこと」だって責任なのだということを

私たちはもっと意識しなければならないと思う。

 

(これは、選挙に限った話ではないけれどね、)

 

 

 

選挙に行こうと思う人と

行かなくてもいいやと思う人の最大の違いは、

この社会に対する危機意識の有無だと思う。

 

 

でも、「社会」と表現すると、

自分から遠い世界を想像してしまう。

 

 

それに、選挙で投票する候補者や政党を決めるには、

まずこの社会の現状を知っておかなきゃならない。

 

そして、社会ではどんなことが話題になっていて

どんな問題が起こっているのか

自分の頭で理解できていなければならない。

 

 

これって凄く難しくて

簡単に解決策が思いつくようなものばかりではなくて、

1つのことを考えていたら、実はすべてのことが

繋がっていることに気づいてきて、

日本だけじゃなくて世界の国々との関係も

頭に入れておかなきゃならなくて、

そのためには文化とか歴史とか経済とか

あらゆる面から考えなきゃならなくて、

途中で考えるのを辞めたくなってしまうほど複雑だ。

 

 

 

だから、そんな時は、

「社会の縮図」を考えれば良いと思う。

 

 

家庭、学校、仕事場で、どうしたら自分や

自分の知ってる人・大切な人が笑っていられるのか。

 

 

それを考えるだけで、

少なくとも今の社会政策システムのままでは

すぐにガタがきてしまうことなんて想像に容易い。

 

 

 

 

今なら、こんな便利なものもある。

JAPAN CHOICE

参議院選挙2019 - Yahoo!ニュース

 

期日前投票だって、2週間近く前から行われている。

 

「選挙」へのハードルは、私たちが思っている以上に

低くなっていると思う。

 

 

 

あとは、私たちの意識の問題だ。

意思を持たない、

持っていたとしても、それを表明しない。

そんな人たちが多数を占める社会なんて

どうかしている。

 

 

 

選挙は、自分の意思を持つための

絶好の機会だとも思う。

 

いろんな考え方を知って、意見を交わして

自分の意見が変わってもいい。

 

大切なのは、自分の頭で考えて

自分の意見を言葉にし、

NOと言える勇気を持つことだと思う。

 

 

 

 

 

 

あんまりカタイことは、書きたくないんだけど。

 

でも、大学生が選挙に行って

「珍しいもの」として取り上げられる社会って

ちょっと恥ずかしいなぁと思ってしまう。

 

 

一票を投じるだけで

自分の意見が社会に反映されるきっかけを作ることが

できるかもしれない

 

 

その可能性を伝えたいなと思うと同時に、

こういう「真面目な話」をする人が

嘲笑の対象になる空気感がなくなって

もっとオープンに話せるようになればいいなと思う。

 

 

 

 

 

非日常の日常的空間

就活が終わった。

終わって1週間経って、やっとその実感がわいてきた。

 

 

会いたい人に会いに行けて

会議もミーティングも行きたくて仕方なくて

それは大好きなメンバーに会いたいからで

私にとってはあの時間(空間)が青春で、

会えば時間の縛りなく永遠に話せて

あぁ、日常が戻ってきたな…

去年の11月以来の、そんな感覚だ。

 

 

 

就活から開放されたという純粋な喜びもあるけれど

回り道しまくりの私の夢を応援してくれて

私の可能性を心から信じてくれて

とびきりの笑顔で涙を流しながら「おめでとう」

と言ってくれる誰かがいて

 

 

そんな人たちが、私が思っていた以上に沢山いて、

祝福されて、初めて実感できたことがある。

 

 

それは、私は全然、一人で戦ってなんて

いなかったということ。

 

 

(ここに書くまでもないくらい、当たり前すぎることなんだけど。でも、不安に駆られる日が続くと、そんな当たり前のことさえ忘れてしまうのだ。)

 

 

 

 

「触れてほしくない」という気持ちと、

これを口にすると、自分が小さく

見えてしまうんだろうな、という気持ちから、

心の中にある本当の気持ちをなかなか素直に

言葉にできなくて

 

言葉にしない日が続くと

頭のなかがぐちゃぐちゃになって

自分でも一体何が不安で何をすべきなのか

分かんなくなって

ますます内に閉じこもって…

というサイクルが続いていた。

 

 

終わった今だから言えるけれど

本当は、就活がすごく、こわかった。

 

優先したいのは、やりたいことなのか、環境なのか。

どちらも捨てがたくて選びきれなくて

最後の最後まで揺れていた。

 

それに、自分がやりたい仕事とできる仕事は、

必ずしも同じではないということも、

身を以って体感した。

 

やりたいことを仕事にしている人たち、

「夢を叶えた」人たちって、本当にすごいんだなと

心から思った。

 

それと同時に、「好きを仕事にする」だけではなくて

「その仕事を好きになる」ことも

同じくらい素晴らしくて立派なことだなと思った。

 

 

 

この選択で一生が決まるかもしれないこと。

地元ではない場所で働くことを選ぶと、「仕事」

以外のすべてを手放すことになるかもしれないこと。

 

 

 

 

私が口にしないから相手もきっと口にしづらくて

「本当はあの時、○○って思っとったんよ」って、

 

えーそんなこと思っとったの⁉

ってびっくりするようなこといっぱい言われて、

 

沢山迷惑かけて心配かけて

そしてそれ以上に沢山応援してくれとったんだな、

と思うと

 

色んなことに追われて「自分てなんて孤独なんだ」

と思い込んでた日々の真ん中にいた自分に

そのことを伝えたくなって

また同じようなことが起きた時のために

今こうしてここに書き残している。

 

 

「先輩の話を聞かせてください!」

と後輩から申し込まれたインタビューの20分前に

企業からお祈り電話をもらって、

全然笑えん状況だったけど

でも初対面のかわいい女の子がインタビュアーということで

しっかり笑顔で対応してなんとか無事に終わらせた後、

テスト期間を迎えた高校生いっぱいの自習室で

独りしっかりと涙を流したり、(笑)

 

 

大好きな友達が鳥取就職と聞いて、

鳥取で就職すれば、災害が起こった時に

すぐに帰れる距離じゃないし

仕事を手に入れる代わりにいろんなものを

放さなきゃいけなくて、

家族とか友達とかと離れ離れになってしまうけど、

 

でも、鳥取で作り上げてきた人間関係も

新しい世界に踏み出す環境が整っていることも

色んなとこに飛び込んでいく勇気も

私にとってこれまでの人生の何にも代えがたい

第一の財産だなぁと気づけたり。

 

 

正直就活は全然うまくいってなくて、

でもみんなの就活はどんどん終わっていって、

みんなのストーリーはキラキラで、

就活中は激病みだったわけだけど

 

 

やりたいことに向かって努力して、必死になって、心から全力で臨んで、時に悔しんで最後に笑えるようにがんばってるほうがキラキラだから

 

って励ましてもらって。

 

手を伸ばせば届く、

わかりやすくて簡単なものが目の前にあれば

思わずそっちに目を呉れそうになるけれど

 

それでも最後まで

大切なものを見失わず頑張り抜けたのは

最後まで私らしさを信じて待ってくれていた人たちがいたからで

そんな人たちへの感謝と恩返しは

一生かけて返していこうって

 

 

久しぶりなのに月並みなことしか書けなくて

ちょっと悔しいけど

そんなことを思っています。

 

 

 

 

 

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これは一昨日、友達が撮ってくれた

ヨーヨー釣りする私です。

友達がカメラを向けてくれてるうちに

釣りたかったのだけど意外と難しくて、

全然釣れなくて、やっと釣れた!のにその瞬間を

撮ってはくれてなくて、(笑)だからこの写真は、

ヨーヨー釣りに奮闘しとる時の写真です☺︎

 

 

 

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昨日は、学校教育と社会教育の違いについて

考えさせられる体験をしてきたのだけど、

ずっと行きたかった所に

まさかのタイミングで行くことができて、

まぁ、運悪く臨時休業中だったのだけど

それも笑い飛ばして

新しい体験を一緒にしていける喜びは

本当に本当に大きなもので。

 

 

 

仲間とのそんな体験は非日常的空間だけど、

知ってる顔がいっぱいいて

いっぱい話していっぱい笑って、

そんな空間は日常だな…って

不思議な感覚になりました。

 

 

未熟で未完成でちょっとダサくて

そんなことは分かっているけど、

それでもそんなの関係ないやと

今の自分のありのままをぶつけられる相手がいて

 

あーだこーだと喋り倒して一日が終わっていく、

そんな日常がとてつもなく愛おしいなぁと

いろんな人と話していて改めて実感しています。

 

 

就活終わったかどうかってすごく聞きづらいと思うので

こんなブログを書きました。

 

私の就活は終わったので、

もしも気にしてくれてる人がいたら、

どうぞ遠慮なく聞いてきてね。

沢山話しましょう☺︎

 

 

 

 

選んで捨てたわけじゃないものに

捨てるのが嫌で

何もかも捨てることができなくて

その結果、手放してきたものが腐るほどある。

 

 

ほんの一部の世界しか知らないのに、

その選択肢の中から

この先の人生が決まるであろう選択をするのが

とてもこわいんですと言ったら、

「大学に行くという選択をした時点で

 手放してきたものが沢山ある」

ということに気付いていないだけだよって

言われた。

 

 

そうか。

私はもう既に、いろんなものを手放してきたんだなぁ。

 

選んで捨てたわけじゃないものが、

捨てようと思って捨てたわけじゃないものが、

他の何かを手に入れるために

無意識に手放していた沢山のものが、

私にとっての「当たり前」を作って

体をカチコチに縛って苦しめていたんだな、

と気づいた。

 

 

そして同時に、捨てた意識もないものに

実は大切なものが詰まっていたかもしれなくて

こんなことを考えても仕方ないけれど、

「結果的に手放すことになってしまったもの」を

違う何かで埋めようとずっと探し続けてしまって

いたことに気付いた。

 

 

 

でも、と思う。

 

捨てた意識なく手放してきた何かがあるのなら

得ようとせずして手に入れてきた何かもある筈で

だけどそれって一体どんなものだろうって

考えてはみるけれど、自分じゃ全然分からない。

 

 

 

 

 

「その選択で、一生が決まると思うじゃん?

 決まらないから。」

 

 

あまりにも爽やかにそう言われて、

返す言葉を失ってしまった。

 

私にとってはおっきくておっきくて

目の前に立ちはだかっているこの壁が、

越えてみたら案外小さな壁だったりするのかな。

 

でもそれは経験したから言えること、

未経験の私にはそんな言葉まともには信じられなくて

むしろその言葉が種となって、

受け取った言葉が頭の中でぐるぐるしている。

 

 

 

誰かに決断を委ねたり

誰かのせいにできる人生は楽で、

ぜんぶ自分で背負っていくしかないんだと

気づいてから

背負って生きることが美徳なんだと

脳に思い込ませながら生きてきた。

 

 

 

壁にぶつかって挫折した時、私は人に

あまり相談をしない。

というより、したくない。と思ってしまう。

 

 

それは直接的な言葉で励まされることが苦手で、

ちょっと恥ずかしくて、

もらった言葉を素直に受け止め切れない自分がいたら

どうしよう、とかって思ってしまうから。

 

 

それに、直接的な励ましよりも

間接的に投げかけられた言葉のほうが、

その言葉によって自分が傷つくことを避けることもできる。

 

 

結論を出すための思考を放棄したくなくて、

たった1人で悩んで考え抜くことが必要なんだと

そう思いながら生きてきた。

 

 

悩んでいる過程も、出した「結論」の一部なわけで、

だったらその「過程」でとことん悩み抜かないと

納得のいく「結果」は出せないと思っている。

 

 

その人生を歩んできたその人だから成功したことって

山ほどあって、その「決断」自体に、自分の

人生に還元できるヒントがあるとは思っていない。

 

 

それよりも、その「決断」に至るまでのストーリーを

知ることのほうがよっぽど参考になると思ってしまう。

 

 

だけど、ずっと一人で考えていると

抵抗と防衛が邪魔をして、前に進めなくなる時がある。

 

何回も何回も同じ思考を繰り返しては、

自己嫌悪に陥ってしまう。

 

 

悩み終わった後で人に報告するのは得意なんだけど

現在進行形の悩みを

リアルタイムの感情を混ぜながら伝えることが

どうしても苦手で出来なかった私は、

昨日、ちょっとだけその壁を乗り越えてみた。

 

 

悩んでる自分を

等身大のままぶつけるのは勇気がいったけど、

言葉は案外自分の気持ちを丁度良く乗せて

運んでくれて、同じ温度で返ってきてくれた。

 

心がだいぶ、軽くなった。

 

何より、不幸せで不必要な思考のサイクルが止まって

くれるのは、他者が在ってからこそだな

と思った。

 

 

こういうふうに思える小さな積み重ねが沢山あったら、

今よりももっと軽やかな思考で

生きてこれたのかなー、とも思った。

 

 

 

でも、どの道を選んだって、その道自体が

ソトから見て正解だとか不正解だとかではなくて、

この私が選んだからこそ意味のあることが

きっとあるのだと思う。

 

 

何かを捨てることにこわくなりすぎてしまうのは、

いろんなものを捨ててきた上に自分の人生があることに

気付いてないでいるから。

 

 

 

大切なのは、捨てたもの/手放したものが

何なのかってことではなくて、

取捨選択の連続で出来上がった自分という人間が

歩んできた道を振り返った時、

その選択のすべてがなければ、悩みとか挫折を含めた、

そこから生まれる新しい道の「始まりの点」は

生まれなかったのだと

気付けることなんじゃないかな、と思う。

 

 

それが「自由になる」ということであって

しがらみや過去に縛られずに生きていく

ということなのかな。

そういうふうに生きていけたらいいな、って思ったこと

 

 

忘れないように

ここに書いておこうっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分のために生きるということ

 

 

感受性が豊かなので、自分のことではないのに

自分のことかのように落ち込んで

元気がなくなる時がある。

 

 

自分の身体の根源から生まれる悲しみと

人への共感から生まれる悲しみが、

私の人生にはたぶん、同じくらいある。

 

 

感情に共感して行動を起こした時、人はよく

「ありがとう」と言ってくれるけれど、

私にはその言葉がどうしても素直に

受け取れないことがある。

 

むしろ、その人が望んでいるわけでもないのに

人の感情に勝手に共感して

その結果自分の元気が吸い取られるなんて、

なんて自意識過剰なんだろう、と思ってしまう…

 

 

 

私はすごく、ドラマを見るのが好きなのだけど

少し前の「家売るオンナの逆襲」がとても好きだった。

 

このドラマでは、多様な背景を持つ人々が

「家を買う」ことで交わっていく。

 

ゆとり世代団塊世代、同性愛、

働き方改革、女性の社会進出など

それぞれの"時代"を象徴するような風潮が描かれながら

ストーリーが進んでいく。

 

この時代の、このタイミングだからこそ

多くの人の心に響く可能性を秘めた作品だなぁと思う。

(何を偉そうに、って感じですね、ごめんなさい。笑)

 

 

今の社会は、

「前提の共有」ができない社会だな、と思う。

 

家族、仕事、生き方、働き方、大切なもの、

優先したいこと。

 

これらの言葉を耳にした時、

人によって描くものはきっとそれぞれ少しずつ

違っていて、

感じ方や考え方に優劣をつけることなどできない。

 

と言うものの、

社会一般的に考えられる「正解」は

おそらく多くの人が想像できるものでもある。

 

だからその分、自分の考え方と

社会から見た「正解」がズレていた時、

自分の内面に不安を抱くことがある。

 

(本当は"時代"なんて関係ないのかも知れないけど。

 人との違いが"見える化"しただけで、

 その違い自体は本当はずっと前から

 存在していたかも知れないから。)

 

 

多くの人はこう考えるんだろうな…

と想像できる意見とは

反対の考え方をしているな、と感じることが

私にはよくある。

 

分かりやすい(?)形

(たとえばLGBTQとか、障がいの有無とか)

でマイノリティだと感じたことはないけれど、

 

日常の節々で、

あ、自分はみんなとは感じ方がちがうなぁ…

と感じることは実は沢山ある。

 

 

私がこのドラマを好きだった理由は、

このドラマの主人公が

頑張っている人を、だれ一人として否定することなく

その生き方を肯定した上で

いろんな葛藤や不安とともに生きている人たちを

励ます言葉を届けてくれるからだ。

 

 

時代や生まれてきた背景は人それぞれ違い、

皆がそれぞれの立場から人生と向き合おうとするけれど

 

一生懸命生きているからこそぶつかり合うし、

自分のことを認めてほしいと思う気持ちが出てくる。

 

 

このドラマを見ていると、

登場人物の背景や考え方にどれだけ違いがあっても、

あぁ、みんな、自分の大切な人や守りたいもののために

毎日必死に生きているのは同じなんだなぁ、

と思わされる。

 

 

 

すべての言動に傷ついて悲しんでいたら

生きていけないから、

自分がショックを受けたり悲しくなったりした瞬間を

いちいち全て覚えてはいないけれど

 

過去を振り返った時、

「ほんとはあの時、傷ついてたのかも」

と思い返すことがある。

 

ぐっと思いがこみ上げてくるような台詞には

心を動かされたなりの経験が人生の中に埋まっていて、

 

過去を辿って掘り起こして考えてみると

だいたいそこには「ハッとさせられた経験」や

「胸をえぐられた経験」が眠っている。

 

他者の感情や人生を巡るストーリーを知ることは

潜在的に働いていた自分の中の感情の変化や

欲望を知ることにもつながるのだと気づいた。

 

 

私はきっと、多様な背景を持つ人たちのことを

知ることで、

自分がこれまでの人生のなかで置き去りにしてきた

感覚や感情を取り戻したいと思っているのだと思う。

 

 

あの時の自分は

もっと貪欲であってよかったし、

もっと素直に感情を表現してよかった。

 

人になんて言われようが思われようが、

自分が持っている可能性を、自ら閉じることなく

未来に希望を抱いてもよかった。

 

 

そしてあの時の自分は傷ついてよかったし、

「助けて」とSOSを求めてよかったのだと、

そう思いたいから、

人の想いに触れる度に

これほど心を揺さぶられるのだと思う。

 

 

 

社会一般的な「正解」や「正統」から

少しズレた感覚を持っていたとしても、

「少数派」や「異端」な考え方の自分を

否定しなくてもいいのだということを、

(自分の感情だけでは不安になってしまうから)

他者の思いや言葉に頼らさせてもらうことで

感じ取りたいのだ。

 

 

(だからきっと、人への共感能力がとても強いのだ。

 と、最近気づいた。)

 

 

私には「人が人に寄り添える社会をつくりたい」

という夢があるけれど、

それはこの社会を生きる誰かのためでもありながら

本当は何より、自分のために叶えたい夢である。

 

正統じゃなくても多数派じゃなくても、

一生懸命生きていることを認めたいし認めてほしい。

認め合える空間の中で生きていきたい。

 

 

 

自分の夢は、どう頑張っても自分のためでしなくて

自分の人生も、どう頑張っても自分のためにしか生きれない。

 

「自分のため」を放って、「誰かのため」になんて

生きれないんだと思う。

 

でも、それでいいと思う。それで十分だとも思う。

 

このブログだって、書いているのは

「感情を言語化したい」からであって

これは完全に自分のためだ。

 

だけどちょっと前に

「はるちゃんのブログ読んでたら心が浄化される」

なんて最高の褒め言葉を言ってもらえて

物凄い嬉しくてその言葉ずっと覚えてて

 

でもそれは意図してやったことでなくて

「気づいたらそうなってた」ってことだから

これ以上嬉しいことはないなぁと思った。

 

私がやりたいのって

こういうことなんだよなって改めて思えた。

 

 

自分のために生きる覚悟を持っているから、

人から見たらまちがってても遠回りでも

分かりにくくても、心が震える経験と原動力を胸に

力強く生きていける。

 

自分のために生きる覚悟を

やっとこさ持つことができた私は、

ちょっとずつ大人になれているのかな…

なれてたらいいな、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水色のチューリップ

 

ちょっと遡るけれど、

ハタチの誕生日、中学校卒業以来連絡を

とっていなかった友人から

「ブログ読んでるよ」というlineをもらった。

 

実は中学校の時は、その子とはあんまり

仲良くはなかったのだけど

勇気を出してメッセージをくれたその子の強さと

優しさに、思わずスマホをぎゅっと握りしめた。

 

 

私がブログを始めたきっかけは

「変わりたいから」という思いがあったからだけど、

書き続けることができた理由は

「伝えたい何か」があったからだった。

 

 

人になんて思われるか。

どこにいても何をするにも頭の中に出てきて

私を縛り続けてきたこの考え方。

 

「人に何か思われるくらいなら」と

私が選んだのは、自分の感情を見せないように

することだった。

 

 

ブログを始めて沢山の人から反応をもらって

それがいつしか私がブログを続けられる原動力

となって、そして気づいた。

 

自分の思いを最も伝えたかった相手とは、

過去の自分だったんだな、って。

 

 

きっと誰の心にも、あるんじゃないかな。

 

コンプレックスとか劣等感とか

人生の中でのいろんな経験から

そっと胸に仕舞うことを決めた感情が。

 

タイムマシンでも現れない限り、時を遡って

過去の自分に自分の思いを伝えることなど

できないけれど

でも、「過去の自分へ」と思って書いてきたことが

温度を保ったまま「いまの誰か」に

伝わってくれていることがある。

 

 

弱さを見せたり、助けてって言えたり、

やりたいことやりたいって言ったりして良いんだ。

楽しいこと楽しいって伝えて良いんだって

教えてくれたのは、はるちゃんでした。

電話させてもらって号泣したこと覚えてて、

人の優しさにふれて温かくて嬉しいと思ったこと

忘れられないの。

それからは自分らしさ、多少自己中でも

良いんだって思って生きてる

 

自己満足かもしれないけど

自分の周りを笑顔にできなきゃ社会なんて変えられない。

 

私の原動力は私のすぐそばにいる人が笑っていること。

一生懸命生きてる日々の中で藻掻き続けている誰かが

自分の言葉で元気になってくれること。

そのためなら多少つらいことも乗り越えていかなきゃ。

 

 

 

 

武器になるもの何一つなくて

周りの人は有名な大学の人たちばっかで、

でも選考受けに行った時、

「何度も足を運んで頂いたこと、覚えていますよ。

 あとはその思いをぶつけるだけですからね、

 頑張ってください」って

人事の人に言われてすごい嬉しくて。

 

 

でも結果的に私は企業の人のその思いを

活かしきることができなかった。

筆記試験も論文も割と手応えあったのになぁ。

 


企業に落ちて初めて泣いて

悔しいなぁって。

 

 

 

大学に入って、もうずっと諦めていたことが叶った。

時間をかけて言葉を尽くして

思いを汲み取ってわかってくれる人たちに出会えた。

でもそれが叶って、そうじゃない人たちと

話さないといけなくなったときに

全然自分のこと伝えられなくなってしまって。

 

 

この社会にいるのは、自分のことをわかってくれる

人たちばかりなわけじゃないから。

 

もっと、なんだろうな、

きれいに語れる人生だったら良かった。

分かりやすくて、伝わりやすくて、

「あなたはこんな人なんだね」って

受け取られやすい人生だったら良かったなって

 

 

こんな思考に陥ってしまっていたけれど、

ずっと会ってなくても

自分のことを思い出して

連絡してきてくれる人がいて

私が元気でいるだけで喜んでくれる人もいるんだって

 

改めてそう思ったら、

人生なんて、まだまだこれからだよなって

やっと前向きになれた。

 

 

 

 

頑張ってることに満足し始めたら、おわりのはじまり。

また明日から、全力で生きるぞ。

 

 

 

 

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ちょっと前だけど、チューリップ見に行きたい

っていう夢が叶った。

 

ほんとは水色のチューリップを見たいと

思ってたんだけど、みれなかった。

 

 

(私はどうしてそれがあると思い込んでたんだろうな…)

 

 

 

 

ギリギリの状態で生きてる時に

頑張れなんて簡単には言えなくて言ってほしくなくて

そんな気持ちになった時

綺麗な景色を見に行こうって

誘ってくれる人がいる

 

 

そういう人との関係を、ずっと大事にしたいなぁ。

 

 

 

自分の価値は自分で決める

「自分の欲は他者の欲だ」って

いつか読んだ本の中に書いてあった。

 

人間の欲の根源を辿っていった先にあるものって

結局は殆どが「人から愛されたい」というものらしい。

 

「かわいくなりたい」も「モテたい」も

「賢くなりたい」も「出世したい」も、

結局はぜんぶ、「人から愛されたい」から出てくる欲。

 

 

私が仕事するのも、夢を叶えたいと思うのも、

人から信頼されて、必要とされて、

愛されたいと思っているからなのかもしれない。

 

ボランティアとかNPOの考え方に共感できるのも、

きっと根源には「誰かから必要とされたい」

という思いがあるからなのだと、

自己分析をしていて気づいた。

 

私がボランティアとかお金にならないことに

力を入れて取り組む意欲があるのも、

「誰かのため」とか「社会が良くなるように」

という思いで何重にも包まれたその真ん中に、

何よりも強い自己愛が眠っているからなのだと思う。

(こんなことには、気づきたくなかった。)

 

 

人から愛されることを願うことは

いつまでも無意識なものであってほしいな、

と最近よく思う。

 

 

 

愛されることを全ての軸として動いていたら

なんだか自分という存在がよく分からなくなってしまって

あれ、私って何のために生きてるんだっけ、

となる。

 

 

就活をしていたら、自分という人間が

本当によく分からなくなる。

 

私にとって仕事とは何で、

得意なことは何で、苦手なことは何なのか。

それはどうやったら仕事や会社に活かすことができて

どうやったら克服できるのか。

 

 

就活とは自分の人生を提出して採点されるみたいだ

と思っていたのだけど、でも、それはちょっと

枠にハマりすぎた考え方だったかなって

先日そう思い直すことがあった。

 

「やりたいこと」と「仕事」が重なる職業が

私にはたまたまあった。

やりたいことを見つけられない苦しさから

逃れることができたという意味では

それはとても有難いことだった。

 

でも、その業界を見つけてしまったら、

そこに合うように自分を当てはめようと

してしまっていることも、事実だ。

 

 

 

選考から落とされれば毎度の如く落ち込むけれど、

でもそれは私という人間の人格を否定されたわけではない。

 

その企業・業界が求めている人物像と

自分という人間が「合わなかった」ということなのだ。

 

 

…ということくらい頭では分かっているけれど、

でもやっぱり企業が求める人物像である(と表現できる)ために出来る事はやっていきたいし、

じゃあその一方で「等身大でありのままの自分」て一体

何だろうなーと考え始めている自分もいる。

 

 

ある子が言った。

「自分にはやりたいことなんてないし、基本的には

 お金がもらえたらどんな仕事でも良いと思ってる。

 仕事だけが人生の全てじゃないし

 奥さんと子どもを養うだけの経済力を持てたら

 それでいいんだ」って。

 

 

「仕事」とはお金を得るための手段だと割り切り、

そう言い切るその子の言葉に

求められていることばかりを意識しすぎて

自分を見失いそうになっていた私は

なんだかその一言で心が軽くなった気がした。

 

 

なんにも諦めたくないしこれからも自分に出来る

最大限の事はやっていきたいと思っているけれど

企業からの評価とはあくまで1つの面から

判断されたものでしかないということも、

忘れないでいたいと思う。

 

自分という人間の強みも弱みも表裏一体

見方を変えたら何にだって変わり得る。

 

自分にとっての幸せも大切なものも、

その価値は自分で決めたらいいのだ。

 

 

 

励ましたい誰かがいる時に、

自分の言葉だけじゃ

たったひとりの大切な誰かを励ますこともできなくて

 


心が燃える瞬間を

置いてきてしまった後悔は

きっと一生消えないまま纏わりついてくるんだろうと

久しぶりにこんな絶望感に浸っている。

 


私には分からない。

弾けるような青春も

すべてを忘れて何かに夢中になれる喜びも。

 


誰のことも嫌いにならないように

誰のことも攻撃しないように

そう思っていたら

いつの間にか誰よりも

自分のことを嫌いになって

自分のことを攻撃していた。

 

 

 

 

「不幸な人のまわりには、不幸な人が寄ってくる。

 幸せな人のまわりには、幸せな人が寄ってくる。

 だからまずははるちゃん自身が幸せになることが

 幸せになるために必要なことだよ」

 

 

 

いつまで経っても

一番わかってほしい人は

一番本音を言えない人のままだけど

私を励ましてくれたこの言葉を

死にたくて生きたくてもがき続けている

いつかの誰かにまっすぐ伝えることができるような

そんな人間になれるまで

まだまだ夢を諦めたくはないから

まだまだまだまだ夢を追いかけていたいなぁと思う。