はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

自分のために生きるということ

 

 

感受性が豊かなので、自分のことではないのに

自分のことかのように落ち込んで

元気がなくなる時がある。

 

 

自分の身体の根源から生まれる悲しみと

人への共感から生まれる悲しみが、

私の人生にはたぶん、同じくらいある。

 

 

感情に共感して行動を起こした時、人はよく

「ありがとう」と言ってくれるけれど、

私にはその言葉がどうしても素直に

受け取れないことがある。

 

むしろ、その人が望んでいるわけでもないのに

人の感情に勝手に共感して

その結果自分の元気が吸い取られるなんて、

なんて自意識過剰なんだろう、と思ってしまう…

 

 

 

私はすごく、ドラマを見るのが好きなのだけど

少し前の「家売るオンナの逆襲」がとても好きだった。

 

このドラマでは、多様な背景を持つ人々が

「家を買う」ことで交わっていく。

 

ゆとり世代団塊世代、同性愛、

働き方改革、女性の社会進出など

それぞれの"時代"を象徴するような風潮が描かれながら

ストーリーが進んでいく。

 

この時代の、このタイミングだからこそ

多くの人の心に響く可能性を秘めた作品だなぁと思う。

(何を偉そうに、って感じですね、ごめんなさい。笑)

 

 

今の社会は、

「前提の共有」ができない社会だな、と思う。

 

家族、仕事、生き方、働き方、大切なもの、

優先したいこと。

 

これらの言葉を耳にした時、

人によって描くものはきっとそれぞれ少しずつ

違っていて、

感じ方や考え方に優劣をつけることなどできない。

 

と言うものの、

社会一般的に考えられる「正解」は

おそらく多くの人が想像できるものでもある。

 

だからその分、自分の考え方と

社会から見た「正解」がズレていた時、

自分の内面に不安を抱くことがある。

 

(本当は"時代"なんて関係ないのかも知れないけど。

 人との違いが"見える化"しただけで、

 その違い自体は本当はずっと前から

 存在していたかも知れないから。)

 

 

多くの人はこう考えるんだろうな…

と想像できる意見とは

反対の考え方をしているな、と感じることが

私にはよくある。

 

分かりやすい(?)形

(たとえばLGBTQとか、障がいの有無とか)

でマイノリティだと感じたことはないけれど、

 

日常の節々で、

あ、自分はみんなとは感じ方がちがうなぁ…

と感じることは実は沢山ある。

 

 

私がこのドラマを好きだった理由は、

このドラマの主人公が

頑張っている人を、だれ一人として否定することなく

その生き方を肯定した上で

いろんな葛藤や不安とともに生きている人たちを

励ます言葉を届けてくれるからだ。

 

 

時代や生まれてきた背景は人それぞれ違い、

皆がそれぞれの立場から人生と向き合おうとするけれど

 

一生懸命生きているからこそぶつかり合うし、

自分のことを認めてほしいと思う気持ちが出てくる。

 

 

このドラマを見ていると、

登場人物の背景や考え方にどれだけ違いがあっても、

あぁ、みんな、自分の大切な人や守りたいもののために

毎日必死に生きているのは同じなんだなぁ、

と思わされる。

 

 

 

すべての言動に傷ついて悲しんでいたら

生きていけないから、

自分がショックを受けたり悲しくなったりした瞬間を

いちいち全て覚えてはいないけれど

 

過去を振り返った時、

「ほんとはあの時、傷ついてたのかも」

と思い返すことがある。

 

ぐっと思いがこみ上げてくるような台詞には

心を動かされたなりの経験が人生の中に埋まっていて、

 

過去を辿って掘り起こして考えてみると

だいたいそこには「ハッとさせられた経験」や

「胸をえぐられた経験」が眠っている。

 

他者の感情や人生を巡るストーリーを知ることは

潜在的に働いていた自分の中の感情の変化や

欲望を知ることにもつながるのだと気づいた。

 

 

私はきっと、多様な背景を持つ人たちのことを

知ることで、

自分がこれまでの人生のなかで置き去りにしてきた

感覚や感情を取り戻したいと思っているのだと思う。

 

 

あの時の自分は

もっと貪欲であってよかったし、

もっと素直に感情を表現してよかった。

 

人になんて言われようが思われようが、

自分が持っている可能性を、自ら閉じることなく

未来に希望を抱いてもよかった。

 

 

そしてあの時の自分は傷ついてよかったし、

「助けて」とSOSを求めてよかったのだと、

そう思いたいから、

人の想いに触れる度に

これほど心を揺さぶられるのだと思う。

 

 

 

社会一般的な「正解」や「正統」から

少しズレた感覚を持っていたとしても、

「少数派」や「異端」な考え方の自分を

否定しなくてもいいのだということを、

(自分の感情だけでは不安になってしまうから)

他者の思いや言葉に頼らさせてもらうことで

感じ取りたいのだ。

 

 

(だからきっと、人への共感能力がとても強いのだ。

 と、最近気づいた。)

 

 

私には「人が人に寄り添える社会をつくりたい」

という夢があるけれど、

それはこの社会を生きる誰かのためでもありながら

本当は何より、自分のために叶えたい夢である。

 

正統じゃなくても多数派じゃなくても、

一生懸命生きていることを認めたいし認めてほしい。

認め合える空間の中で生きていきたい。

 

 

 

自分の夢は、どう頑張っても自分のためでしなくて

自分の人生も、どう頑張っても自分のためにしか生きれない。

 

「自分のため」を放って、「誰かのため」になんて

生きれないんだと思う。

 

でも、それでいいと思う。それで十分だとも思う。

 

このブログだって、書いているのは

「感情を言語化したい」からであって

これは完全に自分のためだ。

 

だけどちょっと前に

「はるちゃんのブログ読んでたら心が浄化される」

なんて最高の褒め言葉を言ってもらえて

物凄い嬉しくてその言葉ずっと覚えてて

 

でもそれは意図してやったことでなくて

「気づいたらそうなってた」ってことだから

これ以上嬉しいことはないなぁと思った。

 

私がやりたいのって

こういうことなんだよなって改めて思えた。

 

 

自分のために生きる覚悟を持っているから、

人から見たらまちがってても遠回りでも

分かりにくくても、心が震える経験と原動力を胸に

力強く生きていける。

 

自分のために生きる覚悟を

やっとこさ持つことができた私は、

ちょっとずつ大人になれているのかな…

なれてたらいいな、と思う。