はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

マイブームは、"欲の言語化"です

 

 

最近、自分のことをきちんと言葉で

伝えられるようになってきました。

 

 

相手にどう思われるかとか

議論が面倒くさいとか

 


そういったことよりも、

"自分が伝えたいことはきちんと伝えよう"

と思うようになりました。

 

 

 

言い方を変えれば、

自己満足ができるようになりました。

 

 

これまでは、言っても変わらないことなら

言わなくていいやと思っていたけれど

 

 

でも、変わるか変わらないかではなくて、

自分が思っていることを素直に口にする

ということがとても大事なのだと痛感しています。

 

 

 


その時飲み込んだ思いというのは、

そこから先ずっと

自分の中に引っ掛かっていることがあります。

 

 

 

そこから先ずっと自分の中で引っ掛かかるくらいなら、

その時その時で言葉にしてスッキリしたほうが

気持ちよく生きていけます。

 

 

 



 

その言葉を言うことで嫌われたくない、とか

喧嘩や口論になるのが面倒くさいとか

 

 

 

そういうのを避けるために

私はいろんな言葉を飲み込んで生きてきたけど、

 


でもそれが積み重なりすぎて、

それは良くないことだったなと最近気づきました。

 

 

 

 

中身の自分が満たされないまま大人になって、

それを今も引きずったまま生きている瞬間がある

ということに気づいたんです。

 

 

 

 

子どもの時に満たされなかったものを、

人は一生をかけて求めるらしいです。

 

 

 

 

求めるのは良いけど、

それだけに縛られて生きるのは

なんだか窮屈な気もして、

そんな自分から抜けたいと思うようになりました。

 

 

 

(不足への補いを求めるような生き方は

原動力がネガティブなものだから

どうしても楽しくなくなっちゃう、)

 

 

 

 

 

自分が思っていることを言葉にするというのは

案外とても大切なことです。

 

 

 


昔のことでも、

「本当はあの時、こうしてほしかった」

と言葉にすることで、

当時の自分へのいろんな思いが整理されます。

 

 

 


たとえその相手に届かなかったとしても、

「あぁ、私はあの時、あぁいうふうに思っていたんだ」

と自分で気づくことが大切なのです。

 

 

 

 

 

 

 


さて、タイトルにも書きましたが、

最近のマイブームは「欲の言語化」です。

 

 

 


「欲の言語化」と言うと堅苦しいけど、

内容はとても簡単なものです。

 

 


「〜がしたい」、「〜をしたくない」
「〜をしてほしい」、「〜をしてほしかった」

 


これを並べるだけです。

 

 


でも、やってみたら分かると思いますが、
これって案外、難しいんです。

 


(ポンポン出てくる人は、素晴らしいです。
自分に素直に生きている人だと思います。)

 

 

 


なぜこれが難しいかと言うと、

自分の見栄や虚勢と向き合うことになるからです。

 

 

 

 

例えば私の場合、

「私だったらこうするのになぁ」

と思うことが続いていました。

 

 

 

じゃあどうして自分がそういうことを思うか、

どうしてほしかったのかを言語化します。

 

 

 

私は自分が作業する時、

それなりの効率とクオリティを求めてやります。

 

 

 

自分にできる最低限のところは、

人に言われるまでもなく自分でやりたいのです。

 

 

 

でも同時に、それと同じことを相手にも求めている、

ということに気づきました。

 

 

 

 

そして、人が変わらないことにモヤモヤしている

自分がいることに気づきました。

 

 

 

どうしてやってくれないの?って。

 

 

 

 

でも、相手を変えるより自分が変わるほうが

遥かに楽だし、

「正しさ」を重視するより

「楽しさ」を大事にするほうが

人はついてきてくれるのだと気づきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

色々反省しました。

 

 

そしてこの結論に至るまで、2週間もかかりました。笑

 

 

 

 

 

 

 

 


普段どれだけ"カッコイイ自分"を見せていても、

自分の中にある欲を言語化すると、

あっという間に等身大の自分が出てきます。

 

 


見かけの自分と等身大の自分のギャップが

大きければ大きいほど、

自分の未熟さに落ち込みます。

 

 


でも、等身大の、かっこ悪い自分が出てきても、


というより、出てくることにこそ、意味があります。

 

 

 

無意識のうちに作り上げられていた

見かけの自分の殻を取り、

 

 

自分の素直な気持ちに

自分で気づいてあげられることが、

自分らしく生きることへの第一歩になるからです。

 

 

 

 

最近、こんな記事を読みました。

トトロに学ぶ、子供を大事にする方法|瀧波 和賀|note

 

 

 

 

物分かりが良く、人の言うことをよく聞く子は

そのことで褒められるけど、

「周りからの評価」や「褒められること」への

執着が大きくなり、

その時自分が本当にやりたいことや

好きなことよりもそれらが優先されるようになると

 

 

本人や周りも気づかぬうちにその子は、

自分の思っていることや

本音を言葉にすることを躊躇うようになり、

 

行動の理由が「〜したいからする」ではなく

「〜しなければならないからする」となり、

 

それが積み重なると、

その子らしさや個性というのは

薄くなってしまうのかも知れないな、と

解釈しました。

 

 

 


20歳になった自分が今思うことは

「自分がやりたいことやって生きるのが1番」

ということなのだけど、

 

 

その「やりたいこと」を見つけるために必要なのが

自分が好きなことや興味のあることを

自由に発信でき、

そしてそれらが肯定される環境なのかなと思います。

 

 

 

 

このことに気付いてから、

"小さな欲"も言葉にするようにしています。

 

 

例えば何が食べたいとか何を観たいとか。

 

 

"なんでもいい"は、言わないように。

 

 

 

 

その積み重ねが、

「やりたいように生きる」ということだと思うから。

 

 

 

 

 

(言いたいことも言えないまま20歳になっちゃったけど

でもきっと、自分を変えることに

遅すぎる年齢なんてないと思うから。

 

 

 

私は常に、

自分をアップデートし続けたいんです。)

 

 

 

 

 

 


欲の言語化は、

「それが叶う/叶わない に構わず

 自分の気持ちを言葉にする力」

も鍛えてくれます。

 

 

 

 

欲を言語化する時、それが叶うか叶わないかは、

多分それほど重要なことではありません。

 

 

 

大事なのは、自分が何を思っているのかを

自分で分かることです。

 

 

(これはつまり、自分と向き合うということだから。)

 

 

 

 

実際に満たされなくても、

「言葉にすること」や「伝えてみること」で、

心の中はスッキリします。

 

 

 

 

 

(伝える時には、伝え方や伝える相手を考え選ぶことも必要かも知れませんが…)

 

 

 

 

 

 

 

 

時間がない時は、1日3個挙げる、とかでも

自分で自分の感情を整理する材料になるので

おすすめです。

 

 

 

皆さんもぜひ、やってみてください✨

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

感情表現はめちゃめちゃ下手だけど、

私は感受性が豊かな人間です。

 

 

 

感受性が豊か過ぎて、

悲しいことがあったのは自分じゃないのに

まるで自分がそうかのように

心が空っぽな気分になる時があります。

 

 

 

 

 

でも、生きてたら、いいこともあります。

 

 

 

 

 

私は雨の日が嫌いじゃないので、

バイトの日に雨が降っていたら

嬉しくなります。

 

 

 

 

 

ちっちゃなことだけど、

結構しあわせになれたりします。

 

 

 

 

 

 

 

とは言っても、

がむしゃらに生きていたら、

どっちが前なのか

分からなくなる時があります。

 

 

 

 

そんな時は、

向いている方向が前だと思い込むのです。

 

 

 

 

 

毎日いろんなことがあるけれど、

自分にとって前に進むことができていたら

それだけですごいことですよね。

 

 

 

 

 

 

生きていくためには、

止まることも

休むことも

捨てることも

必要になることがあると、私は思います。

 

 

 

 

進み続けることだけが、

必ずしも「前を向く」ということでは

ないはずです。

 

 

 

 

どんな決断をしても

きっと明日はいい日になるから、

焦らず気負わず自分のペースで

生きていけたら、いいですね…☺

 

 

 

 

 

 

 

 

嬉しい気持ちを、温存できたらいいのにな

 

 

「あなたの長所」というお題が出たとき

自分の頭の中には全然思い浮かばなくて、

どうしよう出てこんって焦ってたら、

 

 


「たくさんあるよ、ぽんぽん出てくる」って

さらっと言ってくれて

 

 

「言葉が分かりやすい。話も。

はるちゃんの温度で伝わってくる」

って言ってくれた。

 

 


「うん、たくさんある。

頼れるところ、真面目な話もふざけた話もできるとこ。

真面目な話は茶化さず一生懸命聞いてくれて、

ふざけた話は一緒に笑ってくれる。」

 

 

 

 


なんか恥ずかしくなって

「もうやめよ」って言って終わっちゃったけど

本当はとても嬉しかった。

 

 

 

 

 


組織を動かしていくためには

人に嫌われることを気にしてたら

何も言えないし、何もできない。

 

 


だっぴはもう、嫌われる覚悟でやっている。

 

 


納得いかないことは素直に聞くし、

計画どおりに進んでなければ、

なんでやらんの?って、伝える。

 

 

 

 

じゃないと何も進まないから。

 

 


誰かが言わなきゃ始まらないこと、

誰かが動かなきゃ変わらないこと。

 

 

本当は気づいているのに黙って待っているだけなんて、

 

 

そんなのそこに私がいる価値なんてないと

言っているのと同じことだと思う。

 

 

 

 

メンバーにはもう、多分、

いろいろ思われとるんだろうなと思って

やってきた。

 

 

 

 


嫌われちゃっても仕方ない。

私はみんなの感情ではなく

組織の流れを1番に考えて行動するようになったから。

 

 

 

 


でも、本当は、嫌われるのは、嫌だ。

 


できれば何も言わずにいつも笑顔で優しく

みんなのことを見守っていたいし、

悪役に回るのをやめて、

後輩に好かれる先輩になりたいなと思う。

 

 

 

 

 

後輩に好かれる先輩になれている自信はないけれど、

少なくとも同期からは、今日そんなふうな

言葉をもらってとても嬉しかった。

 

 

 

私のこと、ちゃんと見てくれてるんだなって

ホッとした。

 

 

 

*****

 

 

自分の夢を話した時、


「はるこの書く文章はほんまに素敵やから

 そういう仕事してほしいな」って、

 

親友がそう言ってくれて、本当に嬉しかった。

 

 

 

 

私はみんなが言ってくれるほどの

人間ではないけれど

私のことをちゃんと見てくれている誰かがいるから、

明日も頑張ろうと思うことができる。

 

 

 

 

 

孤独と気付けるのは、孤独でない時間を

知っているからだとその子は教えてくれた。

 

 

人は自分とどれだけ向き合えたかで

その人の器が決まるのだと思う。

 

孤独は自分との対話の時間。

孤独は寂しいけれど必要なもの。

 

 

孤独を持っている人間でいたいと思う。

 

 

 


何十年も先の未来のことを考えるのはやめた。

どうしても悲観してしまうから。

 

 

 

 

明日のこと、1ヶ月先のこと、2ヶ月先のこと。

いま想像できるのは、2ヶ月先が限界だ。

 

 

 


でも、いまは、それでいいやと思う(ようにしている)。

 

 


どうせなら、明日にワクワクしながら生きたいから。

楽しみな明日に胸を踊らせて寝床につきたいから。

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに、嬉しいことが1日に何度もあった。

 

 

 

嬉しくてあったかいこの気持ちを胸に、

明日も強く生きようっと。

 

 

 

 

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(私の顔は、二重が印象的で

 目がトロンとしているらしい、

 

 

  え、そうなん、?

 

 

 みんなが口を揃えて言うからびっくりした。

 

 

 …

 

 

 まぁなんでもいっか。

 

 

 かわいく描いてもらっちゃった。ふふ☺)

 

 

 

 

 

 

 

 

怒りとは何か -心の奥底に眠るもの-

 

 

久しぶりに、「書きたい!」と思って書くブログです

 

 

 

 

 

今日のテーマは、「怒り」。

 

 

 

 

 

ずっと、「怒り」って

持ってたらいけないものだと思ってた。

 

 

 

というより、怒りを持っている自分を

肯定することができないでいた。

 

 

 

何かにモヤっとしたり心に引っかかるものがあっても

それを感じてるのは自分だけなんだろう、

みんなはきっと

こんなこと頭の中にかすりもしないんだろう

とか思ってるうちに、

小さなことにいちいち引っかかっている自分に

気づかないフリをしている自分がいた。

 

 

 

 

 

みんながどんどん"大人"になっていく中で、

 

アダルトチルドレンとか思春期の延長と呼ばれるように


私はずっと、皆のようには"大人"になり切れなくて

そんな自分にモヤモヤしながら生きてきた。

 

 

 

 

(どうやら私は、母親に対して反抗期がなかったのが問題みたい…;

でも、それが問題ですと言われても、どうしたらいいのか分からない、)

 

 

 

 

分からない人には分かられないのだろうけど、

社会の何もかもを、するっと飲み込むことが

できない自分がいて、とてもしんどくて、

でも、滑らかに生きることを拒否する自分もいて。

 

 

 

 

 


でもそのモヤモヤを、社会を変えてく希望に

していけるんだと気づけたことがあった。

 

 

 

 

 

思えば、NPOとか地域団体とかって

社会課題解決を目的にしているけれど

そのきっかけにあるものって、

何かに対するモヤモヤだったり問題意識だったり、

その意識の大小は人や団体によって

異なるものではあると思うけれど、

 

 

 

ひとことでまとめてしまえば、辿っていった

先にあるものって、「怒り」だな、と思う。

 

 

 

 

でも、怒りを怒りのままにしていても

社会はきっと変わらない。

 

 

 

悪いものを悪いと叫び続けることより、

その悪いものをどうしていけば

光が見えるようになるのかを考えていくことが

大事なんだと思う。

 

 

 

*****

 

2月と3月の終わりに、

熊本と東北の被災地に行ってきた。

 

 

当時の行く目的としては、

「きちんとこの目で見て感じたことを大切にしたい」

というものだったけれど、今思い起こせば、

 

 

「年に1回やってくる3月11日、たったその1日だけに

 震災のことを思い出して黙祷をする自分」

 

に、違和感と怒りを感じていたのだと思う。

 

 

 


「黙祷」と聞いて1番に思い浮かぶのは、戦争のこと。

 


私は広島に生まれ育ったから、家でも学校でも

平和教育を受けて育った。

常日頃から戦時中のことを耳にしていたし、

テレビでもよくそういう内容のものを見ていた。

 

 


だから、日頃から平和に思いを馳せる自分がいて、

8月6日や9日、15日には毎年当たり前のように

黙祷する自分がいた。

 

 

 

 


でも、恥ずかしながら、3月11日の黙祷は違った。

 

 


震災のことを思い出すのは本当に

その日やその周辺の日だけで、

たった1分の黙祷が終われば、

震災のことを思い起こすことのない、

元通りの"日常"がやってくる。

 

 


それを何年も繰り返しているうちに、

「この『黙祷』をしている自分」に

果たして何の意味があるのだろうと

疑問に思うようになった。

 

 

 

 


あれだけ沢山の人が苦しい思いをしたのに。


津波の映像、崩れた街並み、テレビで何度も

目にしたじゃん。

 

 

 


年にたった1回思い出すだけの人間が黙祷をして、

もちろんそれが無意味なことだとは思わないけれど、

でも、私が被災者だったら、

その「黙祷」に何か心が救われるだろうか、

 

 

いや救われないな、

 

 

そう思った。

 

 

 

 


被災地に行くまでの自分にとって、

震災のことを思い起こすことは

"日常"ではなかったのだ。

 

 

 

 


でも、今は違う。

 


まだまだではあるけど、社会のことを

自分事として捉えるようになりつつある。

 

 


台風や大雨、地震、日本を襲う数多くの災害が起こるたびに、災害が関連することを自分の頭で考えるようになった。

 

 

被災者やその家族のこと。ライフラインの被害状況。

ボランティアや物資支援、災害時に気をつけることの確認、

復興災害のこと。

報道されなくなった後、「何もかも失くなった」

ところから生活を始める人たちのこと。

 

 

 

(1番変わったのは、"確実な明日が来ること"、"当たり前"なんてない、と思うようになったことかな…)

 

 

 


自分事として考えるようになったのは、

災害のことだけではない。

 

 

 


いわゆる"マイノリティ"と言われる立場にいる人たちのこと。

 

 

 

身体や心に障がいがある人。

同性を好きになる人。

学校に行けない人、行かない人。

特殊な能力や珍しい病気を持っている人。

働きたくても働けない人。

結婚しないことを選んだ人。

産まないことを選んだ人。

 

 

 

考え方や生き方、幸せや求めるものなんて

人それぞれのはずなのに、

いろんな方面で、悪意のない、無自覚の差別や偏見に

つらい思いをしている人たちのこと。

 

 


知ろうとしなければ

知ることができない人たちのこと。

 

 

 

 


私は、あの時感じた自分への違和感をどうにかしたくて

東北に行った。

 

 


そしたら、私の"日常"がガラリと変わった。

 

 

 

 

 


違和感や怒りは、それを抱えて生きるのは

しんどくて苦しいことではあるけれど

 

 


でも、それらが

「どうにかしたい」という気持ちに変わることで、

自分や社会を変えていくエネルギーになるのだと思う。

 

 

 

自分や社会を突き動かす、

強く、大きな原動力となるのだと思う。

 

 

 

 


違和感や怒りは、意識して生まれるものではない。

 

 


心の奥底で、無意識に生まれるものだ。

 

 


だから、「怒り」に、

正しい、も、正しくない、も

ないのだと思う。

 

 


感じちゃいけない、とか、

持ってる自分はおかしいとか、

そんなことを思う必要は

これっぽっちもないんじゃないかと思う。

 

 

 


むしろ、心に引っかかった小さなそのモヤモヤを
見て見ぬふりすることなく
きちんと向き合うことができるって、
大事なことなんじゃないかなと私は思う。

 

 

 


少なくとも私は、自分や社会に対して

「そういうものだから」とか、

「そんな小さなこと気にしてたら生きてけないから」

という理由だけで自分の中の違和感や怒りを

消してしまう人間になりたくはない。

 

 

 

 

 

私もまだまだ勉強中だから、

なに生意気なこと言ってんだって

思われるかも知れないけれど…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の「怒り」は、

無関心と無自覚が生む断絶社会と

あらゆる差別・偏見。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの「怒り」は、何ですか。

 

 

 

 

自分の中の「普通」をつくる

 

 

大好きな人に会ってきた。

生きづらい理由が、1つわかった気がした。

 

 

 

今日書くのは、

その人との会話を通して気づき考えたこと。

 

 

 

まだ上手く言語化できなくて

ぼやぼやしたことしか書けないと思うけど

 

 

今書かなかったらずっと書かない気がするから

今の自分に書ける範囲で書いていく。

 

(納得できる言葉で表現できる日を待ってたら

 知らぬ間に思いが消えてしまいそうだから…。)

 

 

*****

 

 

将来に対するいろんな不安や葛藤の中で、

無意識のうちに「逃げること=悪」と

考えている自分がいた。

 

 

 

でも、「逃げることも、正解だと思うよ」と

その人は優しく言ってくれた。

 

 

 

そうか。

逃げることって、必ずしも悪いことではないのか。

 

 

 

今まで何度かそういう言葉を

かけてもらうことがあったけど

なかなか頷くことができなかった。

 

 

 

でも、その人に言われると

なんだか本当のことのように感じた。

 

 

 

 

私の悪い癖は、

物事の考え方が二極化してしまいがちなこと。

 

 

 

好き、苦手

白、黒

0、100…。

 

 

 

好きな人が言っていることは肯定したいし、

苦手な人が言っていることには頷けない自分がいる。

 

 

 

善か悪かはなるべくはっきりさせたいし

はっきりするまでモヤモヤ考えている自分がいる。

 

 

 

ちょっとしたことで「生きていて良かった」と

思うほどに安心感に包まれることも、

ちょっとしたことで絶望し号泣してしまうことも、

きっと私の悪い癖である「考え方の二極化」の

先にあるものなのだと思う。

 

 

 

 

 

人生において

どれが良いとか悪いとか正解とか不正解とか

完全に言い切れる、

そんな絶対的な解はきっと存在しなくて、

人によって出す答えも異なる。

 

 

 

 

生き方とか働き方とか、自分が夢見る生活の

すべての方向に100を求めることはできなくて

 

 

 

1番大事にしたいものをどこまで優先させるか、

2番目、3番目に大事にしたいものを

1番には持ってこれなくても、

これくらいで充分だと納得できるラインとはどこなのか

 

 

 

そうして自分なりに出したそれぞれの最高の

ポイント(点)を繋げたものが

きっと私にとっての幸せな人生なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

私が生きていくことで大切にしたいことは、

言われるがまま流されるがまま生きていくんじゃなくて、

自分の頭でちゃんと考えたうえでの

自分なりの思いや熱意を持って生きていくこと。

そしてそんな人たちと生きていくこと。

 

 

 

働くうえで大切にしたいことは、

その仕事に対する自分なりの誇りや責任感を

持って仕事をすること。

そしてそんな人たちと働くこと。

 

 

 

 

 

5日間のインターンが、良い意味で衝撃的だった。

 

 

業務の内容とか役割とか

知識として初めて知ったことも

勿論勉強になったけれど、

 

 

会話をしていたら自然とあふれてくる、社員さんの

その仕事に対する責任感ややりがい、

熱い思いに触れた時、

あぁ、こんな人たちと一緒に働きたいなぁと

強く思った。

 

 

限られた時間の中で白熱する議論の裏には、

届ける先にいるお客さんへの配慮と気遣い、

そしてその会社だからこその

こだわりとプライドが詰まっていた。

 

 

 

思いを持って仕事している人たちは

本当にかっこよかった。

 

 

 


若手社員さんのお話の中で、

特に印象に残っている言葉がある。

 

 

 

それは、「学びのある仕事」という言葉。

 

 

 

世の中を支える数え切れないくらいある仕事の中で、

「自分がやりたいこと」であり、尚且つ

「自分の成長や学び」を得られる仕事

(を見つけられること)って、

とても魅力的だなと思った。

 

 

 

 

 

 

と、ここまで書いてきてふと思った。

 私、生きがいとかやりがいを求めすぎなのかも…☹

 

 

 

 

生きるうえ、働くうえで

自分にとって大事にしたいもの、尚且つ

言葉で説明できるものが1つ見つかった。

 

 

 

でも、まだその1つだけ。

 

 

 

 

たった1つのものだけを目掛けて生きていたら、

それが壊れた時や得られなかった時、

人はすぐ潰れてしまう。

 

 

 

タイトルに書いた、

自分の中の「普通」をつくる

とは、自分が大事にしたいいくつもの要素を

つくっていくということ。

 

 

 

 

今書いたように、働き方に対してやりがいを求めている自分がいるのは本当だけど、

でも、やりがいを1番には求めない働き方があることも知っている(例えば「仕事の1番の目的は安定したお金を稼ぐこと」だと考える人もいる)し、

色々考えすぎて、実は今は前者の自分にしんどくなってきているのも本当のこと。

 

 

 

問題なのはきっと、

迷っている自分がいることではなくて、

そのどちらかでしか、仕事をしている自分について

考えることができなくなってしまっている、

ということだと思う。

 

 

やりがいを1番に求める方法もあれば、

安定した収入を1番に求める方法もある。

 

 

方法は2つではなくて、3つかも知れない。

 

 

 

グラデーションで考えた時、0か100かではなく、

自分はどの辺りを求めたいかなって、

 

こっちを求める自分もいるけど、

でもこっちの要素を求めている自分もいるな、

他にも要素はあるかも知れないな、

と柔らかく考えられること、

そしてその思考を柔軟にシフトしていけることが

重要なのだと思う。

 

 

 

今の私はまだまだ自分の中の

「普通」が分かっていないし、

形成されきれていないから

すぐ周りに揺られて流されて凹んで落ち込んでしまう。

 

 

 

 

 

 

自分にとっての普通、というのは

分かりやすく言えば「軸」の周りにあるようなもの。

 

 

軸が1本の線だとすると、

自分の中の「普通」は、面のようなイメージ。

 

 

 

その軸を支えるものや構成する要素が

たった1つではないこと、

いろんな方向からアプローチできる考え方が、

極端な2つの考え方に左右されることなく

自分を自分として保つことができる、

幸せに生きるためのヒントなのかなと思う。

 

 

 

*****

 

 

大好きな人との会話を通して

ちょっと色々考えてみて、

大切なことに、気付かされた気がする。

 

 

 

尊敬できる人に出会い、そんな人たちと

日々を過ごせるのは

とても幸せなことだなと思う。

 

 

 

尊敬できる人に出会えるかどうかって、

その人の人生を左右する

とても大きなことだなと思う。

 

 

 

そして、尊敬できる大人に出会えるかどうかって、

子どもにとってはその後の人生を

良くも悪くも変えてしまう

とても重要なことだなと思う。

 

 

 

 

学校社会では、尊敬できる大人には

私はあまり出会わなかった。

 

 

でも、私の周りには今、

尊敬できる人たちが沢山いる。

 

 

そんな人たちから教わることを

沢山沢山吸収していきたい。

 

 

 

それがきっと幸せになるための

自分の中の「普通」をつくることに

私を導いてくれるのだろうな、

と、思うから。

 

 

 

 

 

 

過去の自分と今の自分

 

 

(毎度毎度、暗いことを書いてごめんなさい。

これまでは「届けたい」という思いを1番に書いてきたけれど、これからは自分と向き合うことを1番の目的にブログを書こうと思います。

 

 

自分の中の黒い部分も弱い部分もばんばん書きます。

というかそれがメインになるかも。

 

 

 

ネガティブな感情は、無意識のうちに感じないようにしてる自分がいて、でも感情を大切にしないと自分とは向き合えなくて、出そうとしなければ出てこない。

 

 

自分にとって負の感情も、言語化することで自分と向き合う。

 

 

 

だからネガティブな内容のブログは

SNSにシェアすることは多分もうないし

読んでもきっと面白くはないので、

読むか読まないかは読者の皆さんにお任せします(._.)

 

 

でももし、それでも読んでくれてる人がいたら、

なんだか心が救われる気もします…☺)

 

 

 

 

いま1番苦しんでることは、

過去の自分と今の自分を

つなげることができないでいること。

 

 

 

何言ってんだ、って思われるかもしれないけど

私にとっては深刻な悩みだ。

 

 

 

あの時ちゃんと向き合わずに逃げてしまったから、

今もこうして同じ悩みで

劣等感と罪悪感を抱えて生きているのだと思う。

 

 

 

いま思えば、あの時ちゃんと

「辛い」って言葉にして伝えればよかった。

 

 

 

だって私には、「弱音吐かずに頑張れよ」

なんて言ってくる人は、いるにはいたけど

ほんの少ししかいなかったから。

 

 

 

「辛いよ」って言えば、受け入れてくれていた

のだろうなと思う人たちばかりだから。

 

 

 

でも、そんな人たちに対して、

そんな人たちにだからこそ、

「大丈夫だよ」って言うことが

「迷惑をかけたくない」という気持ちの裏側にあった

「弱い自分を見せたくない」という、

本当は何よりも脆くて心の奥深くに

こびりついていた"自分の弱さ"を示していた。

 

 

 

 

大丈夫な自分を見せることでしか、

自分を守れなかった。

 

 

 

 

辛いと口にすることは弱いことだと思っていたけれど

でも本当は逆なのかも、と最近よく思う。

 

 

 

辛さを伝えられるのって、

痛みを訴えられるのって、

実は1つの武器だよなぁって思う。

 

 

 

だって人から「助けて」って言われないと、

人は人を助けようとは思わないから。

 

 

 

 

声にならない声に気づいてくれる誰かが

いつもそばに居てくれればいいけれど、

だいたいはSOSを出さない限り

人は気づかない。

 

 

 

 

はけ口をつくることは、

"辛い自分"と上手に向き合う1つの手段なのだと思う。

 

 

 

そこで具体的な解決策が見つからなくても、

吐くことでスッキリする。

弱音を吐いている自分でも、それでも

そんな自分のことを受け入れてくれる存在が

何よりも安心感と自己肯定感を生むのだと思う。

 

 

 

 

 

 

「過去の失敗や経験は、どんなことも

 今の自分につながってるんだよ」

 

 

 

 

そう言われても、その感覚が

完全にはよく分からない。

 

 

 

 

過去の自分と今の自分を切り離して生きてきて

しまった私は、そのギャップを埋められない

苦しさに胸がぎゅっとなる。

 

 

 

 

人の目を気にして、言いたいことを言えなくて、

やりたいこともできなくて、


裏切られるのがこわくて、

誰のことも信頼できなくて。

 

 

 

そんな中高時代を埋めるように
いろんな団体に入っていろんなこと経験して、

 


周りの目を気にせずに、

自分がやりたいと思うことをやる、ということ。

 

人に期待しない人生じゃなくて、

傷つくこわさもあるけれど、人のことを信じて、

分かち合えたらちゃんと喜んで、

傷ついたらちゃんと悲しんで、というように、

喜怒哀楽を大切に生きていく、

 

 

って、こうして大学生活を送ってきた。

 

 

 

 

ここにいる時はそれなりに充実しているけれど

でも、地元に帰ったら、

ここにいたら思い出さなくていいようなことを

思い出してしまって、

すごく苦しくて、でもその苦しみを誰にも言えなくて。

 

 


私は就職で地元に帰ったら、ずっとこの苦しみとともに

生きていかないといけんのか、

それってめっちゃ辛いなーって、

消えたくなってしまって。

 

 

 

でも、ここに残ることを選択したら、

高校までの自分から逃げるようにして来た

大学進学の時の自分と何も変わってないような気がして。

 

 

 

結局過去の自分、そして家族から逃げて

生き続けることになるのかなって思って、

 

 

 

そう考えたら、どの道を選択しても私はずっと

自分への劣等感と周りへの罪悪感を抱えて

生きていかんといけんのだなって思えてきて…

 

 

 

 

一体私は何にそんなに劣等感と罪悪感を抱えて

生きているんだろう。

 

 

 

自分でも分からなくて、それが苦しい。

 

 

 

頭の中で引っかかってるモヤモヤを

ぜんぶぜんぶ、言語化できたらいいのになぁ。

 

 

 

 

*****

 

 

人に話す度に、いろんなことを思い出して涙が出てきて

自分の弱さを晒してるみたいでとても辛い。

 

 

人に開示することで傷は癒えていくって先生には

言われたけれど、心をえぐられてるようにしか

今はまだ思えない。

 

 

自分と向き合うためには、もっともっと

心を鍛えないといけないと思ったら、

またそれも辛くなってしまう。

 

 

 

 

 

その悩みで日常の全てが支配されるくらい、

脳内全部埋められるくらいの不安と恐怖を

体験したことのない人に、優しさも想像力もない

軽い言葉で励まされるくらいだったら、

いっそ私には無関与でいてほしいと思ってしまう。

 

 

 

でも逆に、そうじゃない人というのは伝わってくる。

言葉とか表情とか、その人の"温度"が伝わってくる。

 

 

一生懸命話を聞いて咀嚼して分かろうとしてくれて、

こうして聞いてくれる人たちがいるからこそ、

私はもっと頑張らないといけないなと思わされる。

 

 

 

 

今日は凹んで疲れることもあったけど、

でも、良いこともあった。

 

 

いつも頑張ってたことを、

見てくれている誰かがいるのは嬉しいなぁ。

 

 

 

 

明日も強く、生きたいなぁ。

 

 

 

 

 



堂々めぐり

 

 

人生どん底だから、

もう何も気にせずに生きていきたい。

 

好きな時間に起きて

好きな人と好きなもの食べて

おうちでゆっくりして、

お休みが3日続けばディズニーに行って

夢の国を満喫する。

 

こんな暮らしができたらいいなぁ。

 

 

 

でも、自分を縛るものがなくなっちゃうと、

人間どんどんダメになってくのかな。

 

緊張しない日の連続は人間を怠惰にするって

インターン先のおばちゃんが教えてくれた。

 

 

人生って難しいな…

 

 

 

 

自分の能力は低いものだと思っているから、基本的に

褒められても100%素直に嬉しいという感情に

なることがない。

 

 

いつか失望される日が来るけど、

たまたままだ見破られてないだけ、

私を知れば知るほど、みんな私から離れていくのだと

心のどこかで諦めちゃってる部分がある。

 

 

 

 

褒められることに、それ以上でもそれ以下でもなく

自分で価値をつけられればいいのにな。

 

 

 

褒められることが、いつも無自覚のうちに黒い塊になっている。

「そんなわけない、私はそんな凄い人間じゃない」って、褒め言葉を頭から排除しようとし、

「これを超え続けなきゃ」というプレッシャーとなって襲い掛かってくる。

 

 

 

 

 

それはきっと、自分で自分を認める力がなさすぎて

他者からの評価に過敏に反応してしまうからなんだと思う。

 

 

「人から認められる」という意味では

褒められることはとても嬉しいのだけど、

同時に自分を苦しめるものでもあり、褒め言葉は

いつまで経ってもこわくて苦手なもののままだ。

  

 

 

 

 

なんで自分はこんなに月日が経つのに、

未だに克服できんのだろう。

 

 


地元は大好きな場所だけど
でもやっぱり心はもう完全には戻れなくて、
大好きな地元に、胸を張って帰れない自分がすごく嫌。

 

 


自分はみんなが心配してくれて応援してくれるほどの人間じゃないのに
みんなの優しい気持ちと期待に応えられる人間じゃないのに
なんでみんなこんなにやさしくて、自分はこんなに無力なんだろう

 

 


だけどある人はこう言った。

 

 

自分はもう忘れたから、克服?したことになるんかもしれん。

でも忘れたくもなかった。

チャラにして、その存在と関わらんといけんくなったから悔しさもある。

 

過去の日記とか見たらもうすごいこと書いとるから、きつかったんやろな思うけど

もう忘れてしまったから会えるし話せるし

そのことが自分も苦じゃなくなっとる。

ちょっとその時の自分がかわいそう。

だってあんなに悩んだじゃんあんなに苦しんだじゃんあんなに訴えてたじゃんって

 

 

 


克服ってなんだろう。

 

 


でも、どんな生き方でも生きてほしいって

そう言ってもらえて、どれだけしんどくても、

今の自分のこの感情から逃げたくなくて、

ちゃんと向き合って克服しようとしてる自分がいて

 

 


本音を言える存在がちょっとしかいないがために

こうして辛い気持ちを伝えることもその人になってしまって、

大好きなのに、大好きだから自分のことを分かってほしくて、でも本音を伝えるとごめんねって謝らせてしまって、

大好きな人たちに謝らせて自分何しとるんだろう、って…

 

 

 

 


私の人生はこんなに真っ黒なのに

同じ今を生きる皆の生き方はキラキラしてて、

私にはそれが眩しくて。

 

 

 

 

 


人生の壁に

ぶち当たってる真っ最中です…

 

 

 

 

でも、9月だけ、この1ヶ月だけ

頑張ってみようかなって思ったら、

ちょっとだけ心が軽くなった気がして、

 

 

 

それでもうまくいかなかったら

もう1回ちゃんと考えよう。

 

 

 

 

 

生きるのって、ほんまに大変だなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月31日の夜に

 

 

# 8月31日の夜に

 

 

こんなハッシュタグを、知っていますか。

 

 

 

 

夏休みが終わる8月31日から

夏休みが始まる9月1日にかけて

子どもの自殺率が最も高くなることを受け、

"無理に学校に行かなくてもいいよ"というメッセージを

このハッシュタグとともにツイートしたり

noteにまとめたりする動きがある。

 

 

 

 

その殆どが子どもたちに届くかは分からないけれど

時代は少しずつ、よくなっているなぁと思う。

 

 

 

 

 

 

 

思い出して話そうと思えば、

涙が先に出てきて、冷静に話すことができない。

 

 

 

(まぁ、辛すぎて記憶から消してしまって、

ほとんどのことをもう思い出せないのだけど…)

 

 

 

 

経験者なのに、そのことについて語ることのできない

私は、今まさにそれで苦しんでいる誰かを励ます

言葉をかけてあげることも、

背中を押してあげることもできない。

 

 

 

 

 

でも、その時の悲しみや悔しさを超えてきたこと、

言葉にならない気持ちや背景にあるものを想像して

自分だけじゃない誰かを思い大切にしてきたこと、

 

 

そんな日々が今の自分を何よりも支えてきたこと

 

 

 

これくらいなら、言葉にして伝えられる。

 

 

 

 

今いる環境が全てではないし、

誰にだってありのままの自分を受け入れてもらえる

居場所がある。

 

 

 

 

 

"学校に行かなくてもいいよ"と言われても

学校に行かないことを選択できなかった。

 

 

 

 

"なんかあったらすぐ言ってね"と言われても

そんなことを口にできる勇気もなかった。

 

 

 

 

 

 

学校を休んだからといって

辛さがなくなるわけではないし、

将来のことを考えたら

学校に行かないことなんて考えられなかった。

 

 

 

 

でも、何十年も先の将来のことのために、

その時の感情や心の叫びを潰して生きることを

選択してしまったことは、

実はいま1番後悔してることかもしれない。

 

 

 

 

耐えて耐えて我慢して1人で泣くことより、

明日も生きたいと思える心の状態になることのほうが

きっと大切なことだったのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

私にはできなかったけど、

でも、学校なんて、無理して行かなくていいと思う。

 

 

 

つらいことは、つらいと言えばいいと思う。

 

 

 

 

 

 

その時耐えたことは、耐えた"つもり"になってるだけで

本当は心にしっかり刻まれたまま

それからの人生を生きていくことになる。

 

 

 

それを克服する期間って、予想以上にしんどいから。

 

 

 

 

 

向こうは、なんにも覚えてないんだろうな。

 

 

 

全部忘れて、楽しい記憶だけ残って、

いつを思い返しても「楽しかった学校生活」

なんだろうな。

 

 

 

楽しかった記憶だけを思い起こして

思い出に浸れるんだろう。

 

 

 

 

 

(本当はこんなこと、もう、

言いたくもないし思い出したくもない。)

 

 

 

 

 

 

いじめって、その人の一生をこんなに狂わして

しまうものなのに、傷を負うのも

その傷とともに生きていく覚悟を背負うのも

傷つけられた方だけで

 

 

 

いじめの影響で変わってしまった性格は、

その後の人生を大きく左右する。

 

 

 

 

私の場合は、かなり情緒不安定になってしまって

ちょっとしたことで悲しくなってしまうし、

号泣するくらい不安になってしまってたな…

 

 

 

 

でも、もう憎んでないよ。

憎む度にその時のことを思い出すのはしんどいし、

憎しみって、何も生まないって分かったから。

 

 

 

 

 

こんなに辛くて悔しかった経験だけど、

根絶したいとは思っていない。

 

 

 

 

というか、根絶したいと願えないほどに、

社会のいろんなことを知ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

でも、いじめは根絶できなくても、

いじめの根絶を願えなくても、

 

 

誰かにすぐ、手をのばせられる社会になれば

いいなと思う。

 

 

 

 

 

耐えることが強いことなんじゃなくて、

自分の弱さをさらけ出せる強さを持てる社会に

なればいいなと思う。

 

 

 

 

 

つらいことを、つらいと言える社会になれば

いいなと思う。

 

 

 

 

書いてて涙が止まらなくなってきたから、

短めだけどこの話はここで終わり。

 

 

 

 

*****

 

 

優しい人になりたいと思って、生きてきた。

 

 

ずっと、「優しい」が何なのか、分からないまま。

 

 

 

それが何なのか、今でも明確には分からないけど、

 

 

でも、

 

 

貫けるものがない優しさは、優しさではないんじゃないかと最近思うようになった。

 

 

 

 

 

答えのないことを、考えることが好きだった。

答えが出なくても、永遠に考えていられた。

 

 

 

 

でも、段々、自分なりの答えを見つけられるようになった。

 

 

 

やっと自分が、少しずつ形成されてきた感じがする。

 

 

 

 

嬉しいけど、嬉しくない気持ちもある。

 

 

 

自分が形成されればされるほど、

違う価値観や考え方を否定してしまいそうになるから。

 

 

 

 

無意識のうちに、自分が気づかぬうちに、

誰かのことを傷つけてしまっていないかが

とてもこわい。

 

 

 

 

 

自分の中の、「貫けるもの」も、「正義」も、

人それぞれ違う。

 

 

 

 

だからこそこの世界は

いろんな優しさと正義が絡み合ってできていて

 

 

 

何気ない一言が誰かを救って

何気ない行動が誰かを勇気づける。

 

 

(逆のことも、あるね。)

 

 

 

自分にとっての「優しさ」、「正しさ」が、

誰かにとってナイフになってはいないだろうか。

 

 

 

 

自分が気づいていないどこかで、

自分の言葉が、行動が

誰かの涙を流させてはいないだろうか。

 

 

 

 

人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている

 

 

 

ずっとずっと、覚えていたい言葉。

 

 

 

 

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最後に。

 

 

家庭、学校、職場…

 

 

生活を支えるあらゆる場で

助けを求める、声にならない声が実は沢山あること

 

 

 

 

 

8月31日だけじゃなくて、

いつも誰かが心のどこかに留めておける

そんな世界にしていきたい。

 

 

 

 

 

 

経験したことが、どんなに辛くて悲しいことで

深く深く心に残って、トラウマになってしまっても

 

自分だけではない、いつかの誰かの気持ちを思い

その傷を癒すことに繋げられたら

 

過ごしてきた日々、感じてきたこと全部ひっくるめて

私は私で良かったと心から思える日が

来てくれたらいいなと思う。