はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

どうでもいい記憶の話

 

 

小学校5年生の時、塾に通い始めた。

 

 

1人以外、全然知らない子たちだった。

 

 

 

みんなは休憩時間、

同じ小学校の子たちとワイワイ楽しそうにしていた。

 

 

 

私にはそんな友達はいなかったけど、

でも、そのことはそんなに嫌じゃなかった。

 

 

 

自分のことを知っている人たちの中で1人ぼっちでいるのと、自分のことを全然知らない人たちの中で1人でいるのとでは事情が異なる。

 

 

 

みんなは私を知らないし、私もみんなを知らない。

 

 

 

その空間が、心地良かった。

 

 

 

 

私は1人でいることを苦痛だとは思わないし、

何より、1人を楽しめる人間だから。

 

 

 

(というより、中途半端に知ってる人とか、

微妙に関わりのある人との空間のほうが、苦手だ。

 

 

 

その人の考えてることとか思ってることが

次から次へと想像できてしまうから疲れてしまう。)

 

 

 

 

 

人間観察が好きになったのは、その頃からだ。

 

 

先生に見せる顔と、

先生がいなくなってから友達同士で見せる顔。

男子がいる前で見せる顔と、

男子がいなくなってから女友達だけに見せる顔。

 

 

 

会話や目線から浮かび上がる人間関係のカーストを見ているのは刺激的だったし、何より勉強になった。

 

 

あぁ、どこの世界でもあるんだなぁ。

純粋にそう思った。

 

 

 

私は塾で人間関係をつくることに、

積極的になれなかった。

 

 

 

友達ができるのと引き換えに

誰かをチラチラ気にしながら会話するようになる

そんな勇気を持つことができなかった。

 

 

 

 

勉強以外のことに、エネルギーを使うのも嫌だった。

 

 

 

 

 

それに、居場所は先生がつくってくれた。

塾の先生はいつも、みんな、面白かった。

 

 

同世代での人間関係をつくるのがいつまで経っても

下手くそで、いつも1人ぼっちでいる私を気遣って

面白い話をしてくれる先生たちが、とても好きだった。

 

 

 

 

 

そんなある日、一度だけ、

全然話したこともないS君から、

「○○ちゃんに話しかければいいのに」

と言われたことがあった。

 

 

 

(その子の名字がかなり珍しかったからかも知れないけど、なぜかその子のことを今でもよく覚えている。

 

 

 

小学校の名前も、

6年生からの新しいクラスの所属先も

まったく知らないままお別れしちゃったけど。)

 

 

 

 

先生以外からそんなことを言われたのは

初めてだったその衝撃と、

 

全然話したこともない私のことをS君なりに

気遣って声をかけてくれたことが嬉しかったし、

そもそも挨拶すら交わしたこともない私のこと、

ちゃんと認識してくれてたのね、と思うと

クスッと笑えてしまった。

 

 

 

 

 

中学校にあがると校舎が変わったので、

片道1時間以上かけて塾に通っていた。

 

 

 

平日は通えないから、1週間分を日曜日に詰め込んだ

"日曜コース"というのに通っていた。

 

 

 

毎週日曜日、朝9時くらいから夕方6時くらいまで。

 

 

 

親も先生も、"大変だねぇ"と言ってたけど、

私は塾に行くのが楽しかった。

 

 

 

塾に仲の良い友達がいるわけでも、

特別楽しい何かがあるわけでもない。

 

 

 

1人で電車に揺られ、授業を受け、お弁当を食べ、

そしてまた電車に揺られて帰ってくる。

 

 

 

 

静かで緑しかない地元の田舎町とは違って、

ネオンカラーの看板とカープファンが埋め尽くす

雑踏の中を、1人で歩いていた。

 

 

(なんか、小説チックですね。笑)

 

 

 

知らない街に、1人で冒険してるみたいで

楽しかったのかな。

 

 

 

 

 

中学校3年まで、日曜コースにいた。

 

 

 

メンバーは、学年が上がるにつれて増えた。

 

 

 

ほとんどの子が遠いところから通っていたのと、

いろんな地域から来ていたのとで

みんながみんなを知らないクラスだった。

 

 

 

だから、私たちのクラスだけ、

いつも異常に静かだった。

 

 

 

"受験は団体戦だから仲の良さも大事です"

という話を先生は何度もしていたけど、

 

 

 

 

特別仲の良い友達がいるわけでもなければ

特定の誰かを攻撃することもないその空間が、

私にはちょうど良かった。

 

 

 

(それは"塾"というサードプレイス的な所だったから

そう思えていたのかも知れない。)

 

 

 

 

 

このブログで伝えたいことは、本当に何もない。

 

 

 

ただ、自分の中に意識するまでもなかった日の記憶が、

ふと脳裏をよぎる時がある。

 

 

 

 

その記憶の中にいる自分が思ったことや考えたこと、

感じていたことが

気づかぬ間に自分の根幹になっていることがある。

 

 

 

 

インパクトがあって濃い思い出よりもむしろ

そういう思い出のほうが、

無意識の自分の中にあるものに近く迫る時もある。

 

 

 

 

誰にも聞かれない、

言葉にするまでもないそんな日々の思い出にも

実は自分っていっぱい詰まってるのかなぁって、

ぼんやりそんなことを考えることがあったのでした。

 

 

 

 

 

 

優しさの成分

 

 

自分の心に響くことがあったら

ぶわぁって思いが溢れてくる人間なので

3日連続でブログを書いています。

 

 

 


全部読んでくれている人がいてくださったら、

ありがとうございます。

 

 

 

 


今日は、元地域おこし協力隊の方のインタビューに

行ってきたのだけど、

その方がお話してくださったことで

涙が出てしまったものがあり

ちょっと考えることがあったので、

今日はそのことについてブログを書きます。

 

 

 

 


突然だけど、私は「笑顔」に対して

あまり良いイメージを持っていません。

 

 

 


高校にいた時、自分には何の取り柄もないと

思い込んでいた私がある日辿り着いた答えが、

 

 

「自分には何もないのだから、せめて人当たりの良い、

 笑顔な人間でいよう」

 

 

というものでした。

 

 

 


話しかけられれば笑顔で反応することを

常に心掛けていたし、

「笑顔だけは」と思い続けて生きていました。

 

 

 

 


でも、いつも笑ってたけど、

心の中ではいつも泣いていました。

 


顔は笑ってるけど、常に泣きそうでした。

 

 

 

 


家族にも言いたいことを言えなくなったのは、

自分が学校で「笑顔でいること」を

強く意識し始めた頃からでした。

 

 

 


それから5年、6年?

 

 


笑顔をつくらなくても

自然と笑顔になっている自分がいます。

 

 

 


これは、悪い意味で。

 

 

 


もう、意識的じゃなくて

無意識に笑顔でいれるようになってしまったんです。

 

 

 

 

 


そんな自分が、嫌で嫌で堪らなかった。

 

 

そんな自分を、変えたかった。

 

 

元通りの自分に、治したかった。

 

 

 

 

 


でも、なかなか変えられなくて、

 

治せられなくて。

 

 

 


だから人に「笑顔いいね」って言われても

素直には喜べなくて、

人は純粋に褒めてくれていると分かっていても

暗い気分になってしまう自分がいて、

そんな自分のことを尚更好きになれずにいました。

 

 

 


それからずっと、自分を変えたいと思う度に、

 


どうして私はあの時、「笑顔でいること」を

選択してしまったんだろうと、

強く後悔するようになりました。

 

 

 

 


人に嫌われたとしても、

親に心配をかけたとしても、

泣けばよかった。

 

 

 


そう思うようになっていました。

 

 

 

 

 


だけど今日、すごく温かいお話をして頂きました。

 

 

 


その方はおばあちゃん子で、ある日

おばあちゃんにこんなことを言われたらしいです。

 

 

 

"あんたは器量も悪くてかわいそうやねぇ、

 

 


でも、誰にでも輝くものがある。

 

 


それはね、笑顔。"

 

 

 

 

 


そのエピソードを聞いたとき、涙が出てきました。

 

 

 

 


あの時自分が「笑顔でいること」を選んだのは、

辛くて悲しくて苦しみのどん底にいた自分にもできる、

最大級のことだと直感的に思ったからだったんだって。

 

 

 


こう書くと自己暗示みたいだけど、

でも、そういうふうに思えたら、

あの時の自分を少し許せるような気がしました。

 

 

 

 


その方は、こう続けました。

 

 

 

反省しても、後悔はするな。

 

 

 


私は後悔だらけの人生を歩んできたけれど、

でも、そういう経験があったから今の自分があるわけで

今の自分があるから描ける未来がある。

 

 

 


だったら、過去を後悔し続ける必要なんて

ないのかもしれないなと

心が軽くなりました。

 

 

 

 

 


ちょっと前に、こんな記事を読みました。

 

「優しさ」の成分|瀧波 和賀|note

 

 

 


要約すると、

「優しさ」とは「優しくする側」と

「優しくされる側」がいて初めて生まれるもので、

それは交互でないと続かない、という内容です。

 

 

 


「優しさ」が当たり前だと思っている時には、

「優しさ」は返ってこないんですね、

 

 

 

 

 

 


世の中には、頭が良くて効率が良くて、

才能に溢れた人たちが沢山います。

 

 

 


でも、どんなに凄くて仕事が早くて優秀な人でも、

他人への思いやりや人としてのあたたかみのない人は

私はどうしても魅力的だと思えません。

 

 

 


今日インタビューに行った方は、

一緒にお話しているだけで心がぽかぽかする

太陽のような方でした。

 

 

 

 

 


その方は、

 

されて嬉しかったことは、人にもする。


してほしかったことは、自分がやる。


それが自分に返ってくるとは限らないけど、

巡り巡って自分の子どもや孫に

返ってくるかもしれないから。

 

 

 


そうお話してくださいました。

 

 

 

 


なんて素敵なんだろう。

 

 

 

 


優しさって、循環するんだ。

 

 

 


だったら私は、

自分の無知や余裕のなさが原因で

優しさの循環を断ち切ってしまう人間ではなくて、

 

 

受け取った優しさを当たり前だとは思わず感謝し、

それを次の人に回せる人間になりたい。

そう思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


鳥取には、あたたかくて素敵な社会人が沢山います。

 

 

 

 

 


私もそんな、大人になりたいなぁ。

 

 

 

 

 

 

おわり。

 

卓球台があるところに就職しようかな

 

 

今日、オープンしてから初めて

隼ラボに行ってきました。

 


若桜鉄道に乗るのも初めてで、

初めてづくしのインタビューでした。

 

 

 


隼ラボでのインタビュー前の時間と

インタビューした方の雰囲気に、

なんだかとても通ずるものがあったので

今日はそのことについてブログを書こうと思います。

 

 

 

 


今回のインタビューは18時からだったのだけど

汽車の時間の関係で1時間早く隼ラボに到着しました。

 


隼ラボにはブランコがあって、

広くて綺麗なコミュニティスペースが広がってて、

おしゃれなカフェのスタッフさんは優しそうな方で、

それはもうとても素晴らしい所でした。

 

 

 

 


そしてなんと、外のテラスには卓球台が。

 


「卓球してもいいですか…?」と恐る恐る聞くと、

「どうぞどうぞ!」と言って頂き、

そこから1時間弱、卓球をしました。

 

 

 

 


卓球をしたのは、中学校以来かな。

 


私は4人きょうだいなので、雨の日はよく2対2で

チームをつくって台所の机で卓球をしていました。

 

 

 

 


2対2でチームをつくって遊ぶのは卓球だけではなくて、

家の周りを走るという、全然面白くも楽しくもない、

「駅伝大会」という名の遊びもありました。

 

 

(あの頃は兄に言われるがまま走ってたけど、

今考えたら意味わからん遊び。)

 

 

 


懐かしいな。

 

 

 


あの頃みたいに、もっと兄ちゃんといろんな遊びして
いろんな話をしたいなぁと、そう思いました。

 

 

 

 


自分の中で思い出に浸りながら、

一緒に行った子と、卓球をしながら

いろんな話をしました。

 

 


地元のこと、小学校時代のこと、就職のこと。

 

 


よく考えたら、2人とも日常の中に

「あそぶ」という時間があまりなくて、

「難しいこと何も考えずに遊ぶ時間って

 めっちゃ大事だね」って、そんな話をしました。

 

 

 

 

 

 

 


インタビューした方は、

良い意味でとても脱力した方でした。

(失礼な言い方だったらごめんなさい、)

 

 

 

やりたいことならやればいいし、
やりたくないことならやる必要はない。


無理してたら必ずどこかで歪が生まれる

 

 


そんな話をしてくださいました。

 

 


そして、その歪を埋めるのには、

2倍の時間がかかるのだと教えてくださいました。

 

 

 

 


その方の話を聞いて、ハッとしました。

 

 


"わたしたち、生き急いでたね。"

 

 

 


色々やってる人って凄いなぁとか、
いつも忙しそうな人って凄いなぁとか思っているうちに

 

 


理想の人間像を思い浮かべて

自分もその人のようにできるようにならないとなぁと

いつの間にか頭の中の思考が

それに縛られていたことに気づきました。

 

 

 


でも、自分が好きでそれをやっているのでなかったら、

それをすることってただただ自分を

苦しめることになってしまいます。

 

 


だってやりたくてやってるんじゃなくて、

やらなければならないと思ってやっているから。

 

 

 


私もその子も根が真面目だから、

テキトーに生きたいけど

テキトーに生きることができないでいます。

 

 

(テキトーって難しい…。)

 

 

 


「〜でなければならない」、「〜すべきだ」という、

言うなれば「べきべき星人」に

潜在的に頭の中を埋め尽くされながら

生活していたことに気づきました。

 

 

 

 


でも、物理的な忙しさで日常を埋めたからといって、

必ずしもその人の人生に対する充実度が増すわけでも

ないですよね。

 

 

 


何も考えずに遊ぶ時間がこんなに大事だとは

思わなかったし、

 

(というかこれまでは、何をしてても頭の片隅に

義務感や使命感がこびりついていて、

何も考えずに遊ぶということができなかった。)

 

 


今日のご飯は何にしようかなって考えられる時間が、

日常のゆとりや心の余裕につながる。

 

 

 


純粋に卓球が楽しかったというのもあるけれど、

こういうゆとりのある時間が日常にある暮らしを

送りたいねって、2人でそんな会話をしたのでした。

 

 

 

 

 


*****

 

 

 

今日、その子に指摘されて初めて、

やおい」(共通語では「柔らかい」)が

広島弁だったことを知りました。

 

 

 

3年目にして初めて知ったということも含めて、

かなりの衝撃でした。

 

 

 

 

 

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教えてくれたその子は、

人生初ハンモックに乗れてとても嬉しそうでした。

 

 

 

はるちゃん見て〜!って、

子どもがお母さんを呼ぶように言ってるのを見て、

とてもほっこりしました。

 

 

 

 

 

子どもは大人にはなれないけど、

大人はいつでも子どもに戻ることができるって

そんな歌があったなぁと、1人で思い出しました☺

 

 

 

 

 

 

 

マイブームは、"欲の言語化"です

 

 

最近、自分のことをきちんと言葉で

伝えられるようになってきました。

 

 

相手にどう思われるかとか

議論が面倒くさいとか

 


そういったことよりも、

"自分が伝えたいことはきちんと伝えよう"

と思うようになりました。

 

 

 

言い方を変えれば、

自己満足ができるようになりました。

 

 

これまでは、言っても変わらないことなら

言わなくていいやと思っていたけれど

 

 

でも、変わるか変わらないかではなくて、

自分が思っていることを素直に口にする

ということがとても大事なのだと痛感しています。

 

 

 


その時飲み込んだ思いというのは、

そこから先ずっと

自分の中に引っ掛かっていることがあります。

 

 

 

そこから先ずっと自分の中で引っ掛かかるくらいなら、

その時その時で言葉にしてスッキリしたほうが

気持ちよく生きていけます。

 

 

 



 

その言葉を言うことで嫌われたくない、とか

喧嘩や口論になるのが面倒くさいとか

 

 

 

そういうのを避けるために

私はいろんな言葉を飲み込んで生きてきたけど、

 


でもそれが積み重なりすぎて、

それは良くないことだったなと最近気づきました。

 

 

 

 

中身の自分が満たされないまま大人になって、

それを今も引きずったまま生きている瞬間がある

ということに気づいたんです。

 

 

 

 

子どもの時に満たされなかったものを、

人は一生をかけて求めるらしいです。

 

 

 

 

求めるのは良いけど、

それだけに縛られて生きるのは

なんだか窮屈な気もして、

そんな自分から抜けたいと思うようになりました。

 

 

 

(不足への補いを求めるような生き方は

原動力がネガティブなものだから

どうしても楽しくなくなっちゃう、)

 

 

 

 

 

自分が思っていることを言葉にするというのは

案外とても大切なことです。

 

 

 


昔のことでも、

「本当はあの時、こうしてほしかった」

と言葉にすることで、

当時の自分へのいろんな思いが整理されます。

 

 

 


たとえその相手に届かなかったとしても、

「あぁ、私はあの時、あぁいうふうに思っていたんだ」

と自分で気づくことが大切なのです。

 

 

 

 

 

 

 


さて、タイトルにも書きましたが、

最近のマイブームは「欲の言語化」です。

 

 

 


「欲の言語化」と言うと堅苦しいけど、

内容はとても簡単なものです。

 

 


「〜がしたい」、「〜をしたくない」
「〜をしてほしい」、「〜をしてほしかった」

 


これを並べるだけです。

 

 


でも、やってみたら分かると思いますが、
これって案外、難しいんです。

 


(ポンポン出てくる人は、素晴らしいです。
自分に素直に生きている人だと思います。)

 

 

 


なぜこれが難しいかと言うと、

自分の見栄や虚勢と向き合うことになるからです。

 

 

 

 

例えば私の場合、

「私だったらこうするのになぁ」

と思うことが続いていました。

 

 

 

じゃあどうして自分がそういうことを思うか、

どうしてほしかったのかを言語化します。

 

 

 

私は自分が作業する時、

それなりの効率とクオリティを求めてやります。

 

 

 

自分にできる最低限のところは、

人に言われるまでもなく自分でやりたいのです。

 

 

 

でも同時に、それと同じことを相手にも求めている、

ということに気づきました。

 

 

 

 

そして、人が変わらないことにモヤモヤしている

自分がいることに気づきました。

 

 

 

どうしてやってくれないの?って。

 

 

 

 

でも、相手を変えるより自分が変わるほうが

遥かに楽だし、

「正しさ」を重視するより

「楽しさ」を大事にするほうが

人はついてきてくれるのだと気づきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

色々反省しました。

 

 

そしてこの結論に至るまで、2週間もかかりました。笑

 

 

 

 

 

 

 

 


普段どれだけ"カッコイイ自分"を見せていても、

自分の中にある欲を言語化すると、

あっという間に等身大の自分が出てきます。

 

 


見かけの自分と等身大の自分のギャップが

大きければ大きいほど、

自分の未熟さに落ち込みます。

 

 


でも、等身大の、かっこ悪い自分が出てきても、


というより、出てくることにこそ、意味があります。

 

 

 

無意識のうちに作り上げられていた

見かけの自分の殻を取り、

 

 

自分の素直な気持ちに

自分で気づいてあげられることが、

自分らしく生きることへの第一歩になるからです。

 

 

 

 

最近、こんな記事を読みました。

トトロに学ぶ、子供を大事にする方法|瀧波 和賀|note

 

 

 

 

物分かりが良く、人の言うことをよく聞く子は

そのことで褒められるけど、

「周りからの評価」や「褒められること」への

執着が大きくなり、

その時自分が本当にやりたいことや

好きなことよりもそれらが優先されるようになると

 

 

本人や周りも気づかぬうちにその子は、

自分の思っていることや

本音を言葉にすることを躊躇うようになり、

 

行動の理由が「〜したいからする」ではなく

「〜しなければならないからする」となり、

 

それが積み重なると、

その子らしさや個性というのは

薄くなってしまうのかも知れないな、と

解釈しました。

 

 

 


20歳になった自分が今思うことは

「自分がやりたいことやって生きるのが1番」

ということなのだけど、

 

 

その「やりたいこと」を見つけるために必要なのが

自分が好きなことや興味のあることを

自由に発信でき、

そしてそれらが肯定される環境なのかなと思います。

 

 

 

 

このことに気付いてから、

"小さな欲"も言葉にするようにしています。

 

 

例えば何が食べたいとか何を観たいとか。

 

 

"なんでもいい"は、言わないように。

 

 

 

 

その積み重ねが、

「やりたいように生きる」ということだと思うから。

 

 

 

 

 

(言いたいことも言えないまま20歳になっちゃったけど

でもきっと、自分を変えることに

遅すぎる年齢なんてないと思うから。

 

 

 

私は常に、

自分をアップデートし続けたいんです。)

 

 

 

 

 

 


欲の言語化は、

「それが叶う/叶わない に構わず

 自分の気持ちを言葉にする力」

も鍛えてくれます。

 

 

 

 

欲を言語化する時、それが叶うか叶わないかは、

多分それほど重要なことではありません。

 

 

 

大事なのは、自分が何を思っているのかを

自分で分かることです。

 

 

(これはつまり、自分と向き合うということだから。)

 

 

 

 

実際に満たされなくても、

「言葉にすること」や「伝えてみること」で、

心の中はスッキリします。

 

 

 

 

 

(伝える時には、伝え方や伝える相手を考え選ぶことも必要かも知れませんが…)

 

 

 

 

 

 

 

 

時間がない時は、1日3個挙げる、とかでも

自分で自分の感情を整理する材料になるので

おすすめです。

 

 

 

皆さんもぜひ、やってみてください✨

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

感情表現はめちゃめちゃ下手だけど、

私は感受性が豊かな人間です。

 

 

 

感受性が豊か過ぎて、

悲しいことがあったのは自分じゃないのに

まるで自分がそうかのように

心が空っぽな気分になる時があります。

 

 

 

 

 

でも、生きてたら、いいこともあります。

 

 

 

 

 

私は雨の日が嫌いじゃないので、

バイトの日に雨が降っていたら

嬉しくなります。

 

 

 

 

 

ちっちゃなことだけど、

結構しあわせになれたりします。

 

 

 

 

 

 

 

とは言っても、

がむしゃらに生きていたら、

どっちが前なのか

分からなくなる時があります。

 

 

 

 

そんな時は、

向いている方向が前だと思い込むのです。

 

 

 

 

 

毎日いろんなことがあるけれど、

自分にとって前に進むことができていたら

それだけですごいことですよね。

 

 

 

 

 

 

生きていくためには、

止まることも

休むことも

捨てることも

必要になることがあると、私は思います。

 

 

 

 

進み続けることだけが、

必ずしも「前を向く」ということでは

ないはずです。

 

 

 

 

どんな決断をしても

きっと明日はいい日になるから、

焦らず気負わず自分のペースで

生きていけたら、いいですね…☺

 

 

 

 

 

 

 

 

嬉しい気持ちを、温存できたらいいのにな

 

 

「あなたの長所」というお題が出たとき

自分の頭の中には全然思い浮かばなくて、

どうしよう出てこんって焦ってたら、

 

 


「たくさんあるよ、ぽんぽん出てくる」って

さらっと言ってくれて

 

 

「言葉が分かりやすい。話も。

はるちゃんの温度で伝わってくる」

って言ってくれた。

 

 


「うん、たくさんある。

頼れるところ、真面目な話もふざけた話もできるとこ。

真面目な話は茶化さず一生懸命聞いてくれて、

ふざけた話は一緒に笑ってくれる。」

 

 

 

 


なんか恥ずかしくなって

「もうやめよ」って言って終わっちゃったけど

本当はとても嬉しかった。

 

 

 

 

 


組織を動かしていくためには

人に嫌われることを気にしてたら

何も言えないし、何もできない。

 

 


だっぴはもう、嫌われる覚悟でやっている。

 

 


納得いかないことは素直に聞くし、

計画どおりに進んでなければ、

なんでやらんの?って、伝える。

 

 

 

 

じゃないと何も進まないから。

 

 


誰かが言わなきゃ始まらないこと、

誰かが動かなきゃ変わらないこと。

 

 

本当は気づいているのに黙って待っているだけなんて、

 

 

そんなのそこに私がいる価値なんてないと

言っているのと同じことだと思う。

 

 

 

 

メンバーにはもう、多分、

いろいろ思われとるんだろうなと思って

やってきた。

 

 

 

 


嫌われちゃっても仕方ない。

私はみんなの感情ではなく

組織の流れを1番に考えて行動するようになったから。

 

 

 

 


でも、本当は、嫌われるのは、嫌だ。

 


できれば何も言わずにいつも笑顔で優しく

みんなのことを見守っていたいし、

悪役に回るのをやめて、

後輩に好かれる先輩になりたいなと思う。

 

 

 

 

 

後輩に好かれる先輩になれている自信はないけれど、

少なくとも同期からは、今日そんなふうな

言葉をもらってとても嬉しかった。

 

 

 

私のこと、ちゃんと見てくれてるんだなって

ホッとした。

 

 

 

*****

 

 

自分の夢を話した時、


「はるこの書く文章はほんまに素敵やから

 そういう仕事してほしいな」って、

 

親友がそう言ってくれて、本当に嬉しかった。

 

 

 

 

私はみんなが言ってくれるほどの

人間ではないけれど

私のことをちゃんと見てくれている誰かがいるから、

明日も頑張ろうと思うことができる。

 

 

 

 

 

孤独と気付けるのは、孤独でない時間を

知っているからだとその子は教えてくれた。

 

 

人は自分とどれだけ向き合えたかで

その人の器が決まるのだと思う。

 

孤独は自分との対話の時間。

孤独は寂しいけれど必要なもの。

 

 

孤独を持っている人間でいたいと思う。

 

 

 


何十年も先の未来のことを考えるのはやめた。

どうしても悲観してしまうから。

 

 

 

 

明日のこと、1ヶ月先のこと、2ヶ月先のこと。

いま想像できるのは、2ヶ月先が限界だ。

 

 

 


でも、いまは、それでいいやと思う(ようにしている)。

 

 


どうせなら、明日にワクワクしながら生きたいから。

楽しみな明日に胸を踊らせて寝床につきたいから。

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに、嬉しいことが1日に何度もあった。

 

 

 

嬉しくてあったかいこの気持ちを胸に、

明日も強く生きようっと。

 

 

 

 

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(私の顔は、二重が印象的で

 目がトロンとしているらしい、

 

 

  え、そうなん、?

 

 

 みんなが口を揃えて言うからびっくりした。

 

 

 …

 

 

 まぁなんでもいっか。

 

 

 かわいく描いてもらっちゃった。ふふ☺)

 

 

 

 

 

 

 

 

怒りとは何か -心の奥底に眠るもの-

 

 

久しぶりに、「書きたい!」と思って書くブログです

 

 

 

 

 

今日のテーマは、「怒り」。

 

 

 

 

 

ずっと、「怒り」って

持ってたらいけないものだと思ってた。

 

 

 

というより、怒りを持っている自分を

肯定することができないでいた。

 

 

 

何かにモヤっとしたり心に引っかかるものがあっても

それを感じてるのは自分だけなんだろう、

みんなはきっと

こんなこと頭の中にかすりもしないんだろう

とか思ってるうちに、

小さなことにいちいち引っかかっている自分に

気づかないフリをしている自分がいた。

 

 

 

 

 

みんながどんどん"大人"になっていく中で、

 

アダルトチルドレンとか思春期の延長と呼ばれるように


私はずっと、皆のようには"大人"になり切れなくて

そんな自分にモヤモヤしながら生きてきた。

 

 

 

 

(どうやら私は、母親に対して反抗期がなかったのが問題みたい…;

でも、それが問題ですと言われても、どうしたらいいのか分からない、)

 

 

 

 

分からない人には分かられないのだろうけど、

社会の何もかもを、するっと飲み込むことが

できない自分がいて、とてもしんどくて、

でも、滑らかに生きることを拒否する自分もいて。

 

 

 

 

 


でもそのモヤモヤを、社会を変えてく希望に

していけるんだと気づけたことがあった。

 

 

 

 

 

思えば、NPOとか地域団体とかって

社会課題解決を目的にしているけれど

そのきっかけにあるものって、

何かに対するモヤモヤだったり問題意識だったり、

その意識の大小は人や団体によって

異なるものではあると思うけれど、

 

 

 

ひとことでまとめてしまえば、辿っていった

先にあるものって、「怒り」だな、と思う。

 

 

 

 

でも、怒りを怒りのままにしていても

社会はきっと変わらない。

 

 

 

悪いものを悪いと叫び続けることより、

その悪いものをどうしていけば

光が見えるようになるのかを考えていくことが

大事なんだと思う。

 

 

 

*****

 

2月と3月の終わりに、

熊本と東北の被災地に行ってきた。

 

 

当時の行く目的としては、

「きちんとこの目で見て感じたことを大切にしたい」

というものだったけれど、今思い起こせば、

 

 

「年に1回やってくる3月11日、たったその1日だけに

 震災のことを思い出して黙祷をする自分」

 

に、違和感と怒りを感じていたのだと思う。

 

 

 


「黙祷」と聞いて1番に思い浮かぶのは、戦争のこと。

 


私は広島に生まれ育ったから、家でも学校でも

平和教育を受けて育った。

常日頃から戦時中のことを耳にしていたし、

テレビでもよくそういう内容のものを見ていた。

 

 


だから、日頃から平和に思いを馳せる自分がいて、

8月6日や9日、15日には毎年当たり前のように

黙祷する自分がいた。

 

 

 

 


でも、恥ずかしながら、3月11日の黙祷は違った。

 

 


震災のことを思い出すのは本当に

その日やその周辺の日だけで、

たった1分の黙祷が終われば、

震災のことを思い起こすことのない、

元通りの"日常"がやってくる。

 

 


それを何年も繰り返しているうちに、

「この『黙祷』をしている自分」に

果たして何の意味があるのだろうと

疑問に思うようになった。

 

 

 

 


あれだけ沢山の人が苦しい思いをしたのに。


津波の映像、崩れた街並み、テレビで何度も

目にしたじゃん。

 

 

 


年にたった1回思い出すだけの人間が黙祷をして、

もちろんそれが無意味なことだとは思わないけれど、

でも、私が被災者だったら、

その「黙祷」に何か心が救われるだろうか、

 

 

いや救われないな、

 

 

そう思った。

 

 

 

 


被災地に行くまでの自分にとって、

震災のことを思い起こすことは

"日常"ではなかったのだ。

 

 

 

 


でも、今は違う。

 


まだまだではあるけど、社会のことを

自分事として捉えるようになりつつある。

 

 


台風や大雨、地震、日本を襲う数多くの災害が起こるたびに、災害が関連することを自分の頭で考えるようになった。

 

 

被災者やその家族のこと。ライフラインの被害状況。

ボランティアや物資支援、災害時に気をつけることの確認、

復興災害のこと。

報道されなくなった後、「何もかも失くなった」

ところから生活を始める人たちのこと。

 

 

 

(1番変わったのは、"確実な明日が来ること"、"当たり前"なんてない、と思うようになったことかな…)

 

 

 


自分事として考えるようになったのは、

災害のことだけではない。

 

 

 


いわゆる"マイノリティ"と言われる立場にいる人たちのこと。

 

 

 

身体や心に障がいがある人。

同性を好きになる人。

学校に行けない人、行かない人。

特殊な能力や珍しい病気を持っている人。

働きたくても働けない人。

結婚しないことを選んだ人。

産まないことを選んだ人。

 

 

 

考え方や生き方、幸せや求めるものなんて

人それぞれのはずなのに、

いろんな方面で、悪意のない、無自覚の差別や偏見に

つらい思いをしている人たちのこと。

 

 


知ろうとしなければ

知ることができない人たちのこと。

 

 

 

 


私は、あの時感じた自分への違和感をどうにかしたくて

東北に行った。

 

 


そしたら、私の"日常"がガラリと変わった。

 

 

 

 

 


違和感や怒りは、それを抱えて生きるのは

しんどくて苦しいことではあるけれど

 

 


でも、それらが

「どうにかしたい」という気持ちに変わることで、

自分や社会を変えていくエネルギーになるのだと思う。

 

 

 

自分や社会を突き動かす、

強く、大きな原動力となるのだと思う。

 

 

 

 


違和感や怒りは、意識して生まれるものではない。

 

 


心の奥底で、無意識に生まれるものだ。

 

 


だから、「怒り」に、

正しい、も、正しくない、も

ないのだと思う。

 

 


感じちゃいけない、とか、

持ってる自分はおかしいとか、

そんなことを思う必要は

これっぽっちもないんじゃないかと思う。

 

 

 


むしろ、心に引っかかった小さなそのモヤモヤを
見て見ぬふりすることなく
きちんと向き合うことができるって、
大事なことなんじゃないかなと私は思う。

 

 

 


少なくとも私は、自分や社会に対して

「そういうものだから」とか、

「そんな小さなこと気にしてたら生きてけないから」

という理由だけで自分の中の違和感や怒りを

消してしまう人間になりたくはない。

 

 

 

 

 

私もまだまだ勉強中だから、

なに生意気なこと言ってんだって

思われるかも知れないけれど…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の「怒り」は、

無関心と無自覚が生む断絶社会と

あらゆる差別・偏見。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの「怒り」は、何ですか。

 

 

 

 

自分の中の「普通」をつくる

 

 

大好きな人に会ってきた。

生きづらい理由が、1つわかった気がした。

 

 

 

今日書くのは、

その人との会話を通して気づき考えたこと。

 

 

 

まだ上手く言語化できなくて

ぼやぼやしたことしか書けないと思うけど

 

 

今書かなかったらずっと書かない気がするから

今の自分に書ける範囲で書いていく。

 

(納得できる言葉で表現できる日を待ってたら

 知らぬ間に思いが消えてしまいそうだから…。)

 

 

*****

 

 

将来に対するいろんな不安や葛藤の中で、

無意識のうちに「逃げること=悪」と

考えている自分がいた。

 

 

 

でも、「逃げることも、正解だと思うよ」と

その人は優しく言ってくれた。

 

 

 

そうか。

逃げることって、必ずしも悪いことではないのか。

 

 

 

今まで何度かそういう言葉を

かけてもらうことがあったけど

なかなか頷くことができなかった。

 

 

 

でも、その人に言われると

なんだか本当のことのように感じた。

 

 

 

 

私の悪い癖は、

物事の考え方が二極化してしまいがちなこと。

 

 

 

好き、苦手

白、黒

0、100…。

 

 

 

好きな人が言っていることは肯定したいし、

苦手な人が言っていることには頷けない自分がいる。

 

 

 

善か悪かはなるべくはっきりさせたいし

はっきりするまでモヤモヤ考えている自分がいる。

 

 

 

ちょっとしたことで「生きていて良かった」と

思うほどに安心感に包まれることも、

ちょっとしたことで絶望し号泣してしまうことも、

きっと私の悪い癖である「考え方の二極化」の

先にあるものなのだと思う。

 

 

 

 

 

人生において

どれが良いとか悪いとか正解とか不正解とか

完全に言い切れる、

そんな絶対的な解はきっと存在しなくて、

人によって出す答えも異なる。

 

 

 

 

生き方とか働き方とか、自分が夢見る生活の

すべての方向に100を求めることはできなくて

 

 

 

1番大事にしたいものをどこまで優先させるか、

2番目、3番目に大事にしたいものを

1番には持ってこれなくても、

これくらいで充分だと納得できるラインとはどこなのか

 

 

 

そうして自分なりに出したそれぞれの最高の

ポイント(点)を繋げたものが

きっと私にとっての幸せな人生なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

私が生きていくことで大切にしたいことは、

言われるがまま流されるがまま生きていくんじゃなくて、

自分の頭でちゃんと考えたうえでの

自分なりの思いや熱意を持って生きていくこと。

そしてそんな人たちと生きていくこと。

 

 

 

働くうえで大切にしたいことは、

その仕事に対する自分なりの誇りや責任感を

持って仕事をすること。

そしてそんな人たちと働くこと。

 

 

 

 

 

5日間のインターンが、良い意味で衝撃的だった。

 

 

業務の内容とか役割とか

知識として初めて知ったことも

勿論勉強になったけれど、

 

 

会話をしていたら自然とあふれてくる、社員さんの

その仕事に対する責任感ややりがい、

熱い思いに触れた時、

あぁ、こんな人たちと一緒に働きたいなぁと

強く思った。

 

 

限られた時間の中で白熱する議論の裏には、

届ける先にいるお客さんへの配慮と気遣い、

そしてその会社だからこその

こだわりとプライドが詰まっていた。

 

 

 

思いを持って仕事している人たちは

本当にかっこよかった。

 

 

 


若手社員さんのお話の中で、

特に印象に残っている言葉がある。

 

 

 

それは、「学びのある仕事」という言葉。

 

 

 

世の中を支える数え切れないくらいある仕事の中で、

「自分がやりたいこと」であり、尚且つ

「自分の成長や学び」を得られる仕事

(を見つけられること)って、

とても魅力的だなと思った。

 

 

 

 

 

 

と、ここまで書いてきてふと思った。

 私、生きがいとかやりがいを求めすぎなのかも…☹

 

 

 

 

生きるうえ、働くうえで

自分にとって大事にしたいもの、尚且つ

言葉で説明できるものが1つ見つかった。

 

 

 

でも、まだその1つだけ。

 

 

 

 

たった1つのものだけを目掛けて生きていたら、

それが壊れた時や得られなかった時、

人はすぐ潰れてしまう。

 

 

 

タイトルに書いた、

自分の中の「普通」をつくる

とは、自分が大事にしたいいくつもの要素を

つくっていくということ。

 

 

 

 

今書いたように、働き方に対してやりがいを求めている自分がいるのは本当だけど、

でも、やりがいを1番には求めない働き方があることも知っている(例えば「仕事の1番の目的は安定したお金を稼ぐこと」だと考える人もいる)し、

色々考えすぎて、実は今は前者の自分にしんどくなってきているのも本当のこと。

 

 

 

問題なのはきっと、

迷っている自分がいることではなくて、

そのどちらかでしか、仕事をしている自分について

考えることができなくなってしまっている、

ということだと思う。

 

 

やりがいを1番に求める方法もあれば、

安定した収入を1番に求める方法もある。

 

 

方法は2つではなくて、3つかも知れない。

 

 

 

グラデーションで考えた時、0か100かではなく、

自分はどの辺りを求めたいかなって、

 

こっちを求める自分もいるけど、

でもこっちの要素を求めている自分もいるな、

他にも要素はあるかも知れないな、

と柔らかく考えられること、

そしてその思考を柔軟にシフトしていけることが

重要なのだと思う。

 

 

 

今の私はまだまだ自分の中の

「普通」が分かっていないし、

形成されきれていないから

すぐ周りに揺られて流されて凹んで落ち込んでしまう。

 

 

 

 

 

 

自分にとっての普通、というのは

分かりやすく言えば「軸」の周りにあるようなもの。

 

 

軸が1本の線だとすると、

自分の中の「普通」は、面のようなイメージ。

 

 

 

その軸を支えるものや構成する要素が

たった1つではないこと、

いろんな方向からアプローチできる考え方が、

極端な2つの考え方に左右されることなく

自分を自分として保つことができる、

幸せに生きるためのヒントなのかなと思う。

 

 

 

*****

 

 

大好きな人との会話を通して

ちょっと色々考えてみて、

大切なことに、気付かされた気がする。

 

 

 

尊敬できる人に出会い、そんな人たちと

日々を過ごせるのは

とても幸せなことだなと思う。

 

 

 

尊敬できる人に出会えるかどうかって、

その人の人生を左右する

とても大きなことだなと思う。

 

 

 

そして、尊敬できる大人に出会えるかどうかって、

子どもにとってはその後の人生を

良くも悪くも変えてしまう

とても重要なことだなと思う。

 

 

 

 

学校社会では、尊敬できる大人には

私はあまり出会わなかった。

 

 

でも、私の周りには今、

尊敬できる人たちが沢山いる。

 

 

そんな人たちから教わることを

沢山沢山吸収していきたい。

 

 

 

それがきっと幸せになるための

自分の中の「普通」をつくることに

私を導いてくれるのだろうな、

と、思うから。