はるちんのひとりごと。

自分の思いを自分の言葉で。楽しみも喜びも悩みも不安も悲しみもぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、共有すれば希望になる"

夢託し

1年間休学してインターンしようか迷っていた半年前、

私の選択をすんなりと受け入れ

応援しようとしてくれた人と、

「なんでわざわざ休学?」と疑問に思う

(というより怪訝そうに聞いてくる)人とに分かれた。

 

年代が上がれば上がるほど

NPO」の名称や考え方は普及していなくて、

だっぴに入った時、宗教団体に入っているのでは

ないかと家族からは心配され、

自分の所属を説明するだけで、物凄く多くの

時間と言葉を尽くさなきゃならなかった。

(もちろん心配してくれるのはとても有り難いのだけど…)

 

 

「大学が高校化している」と言われているのを

最近本で読んで、納得した。

「大学が持つ意味」というのは

とても狭くなっているのかもしれないな、と思うから。

 

私には社会に伝えたいことが沢山あるのだけど、

その中でも最近特によく思うのは

誰もがもっと自由に夢を描いていいのだということ、

どんな選択肢も無条件に受け入れられ

応援されていいのだということだ。

 

「大卒」という肩書を得るためだけに大学がある

わけではないし、学ぶ目的や意欲なくして

ただ単位を取るためだけに通う大学生活は

なんだかすごく寂しいなぁと思う。

 

それに、大学とは学問するだけではなくて

学内外の活動を通していろんな人がいることを知り

自分の世界観が広がる、広げていく楽しさを

経験することのできる場所でもあると思う。

 

そして自分の世界を広げていったその先に

大学で学んだこととは全く関係のないフィールドに

辿り着くこともあるし、

学んだ内容が、思わぬところで自分に繋がってくる

こともあるかもしれない。

 

そういうことも含めて、自分の中の世界を

良い意味で壊してくれる、想定外で思いがけない

出来事の連続が

(しかもそれが人によってかなり変わるという)

大学生活の魅力のひとつでもあると思う。

 

 

こういうことを全部全部ひっくるめて、

私にとって大学とは

学ぶ楽しさを初めて知った場所だった。

 

自分の心を揺さぶられる学問に出会った時の衝撃は

今でも忘れられないほどのもので、

私からこの学問を除いてしまえば

学ぶ喜びや楽しさを感じることのない、

つまらない大学生活になっていただろうなと強く思う。

 

そして同時に、学ぶ喜びや楽しさに、もっと早い

段階で気づけていたら、自分に見えていた世界は

違うものになっていたかもしれないな、とも思う。

 

 

中学生の時の将来の夢は、教師になることだった。

それは「命や平和の大切さを子どもたちに伝えたい」

という思いがあったからでもあるけれど、

 

でも、それと同じくらいの熱量で

心の中にひっそりと、けれど確実にあったのは

「自分と同じように、学校の中で窮屈な思いを

している子の味方でありたい」という思いだった。

 

結局、教師よりもやりたいことを見つけたので

私は上に書いたことを実現することはできなかった。

 

 

でも、最近、自分には叶えられなかったその夢を

誰かに託すことができる喜びを感じることがあった。

 

 

高校までの私は、授業に国語があったから、

国語を勉強していた。

試験で高い点数をとることが受験につながったから、

勉強していた。

 

 

ゴールはいつも「良い成績をとること」であり

「受験に合格すること」だった。

 

 

でも、今になって思うのは、ただ知識を身につけて

学力という指標で自分を測る(測られる)ためだけに

受験という制度があるのではないということ、

テストで高い点数をとることだけに

学問の価値があるのではないということだ。

 

 

なぜそれを勉強するのか、

勉強した先に何があるのか、どうなれるのかを

イメージできる力があれば、私はもっと楽しく勉強

することができていたのかも知れない、と思う。

 

 

「ことば」とは全ての物事の基盤であり、

ことばが無ければ何かを考え創造することはできなくて

ことばが無ければ誰かに何かを伝えることもできない。

 

時代や国を越え、使えることばが増えれば増えるほど

思考は奥行きのあるものになり

より正確に自分の思いや考えを伝え

相手の言いたいことが理解できるようになる。

 

今ならそう分かるけれど、中学生の自分には

そんなことを考えようとしたことすらなかった。

 

 

だから、これから先生になる姉に

「なぜそれを勉強するのか」、

「学んだ先にどんな未来があるのか」

ということを考えるきっかけをあげられる先生に

なってほしいな、という話をした。

 

 

 

今まで、自分の行動の原動力になっていたのは

悲しみや怒りが多かった。

 

だから、同じ「夢」でも、否定形のことが多かった。

 

「自分みたいな思いをする人が生まれないように」

というように。

 

 

でも今は、自分にとって悲しかったことや

怒りの種になっていたものは、

「願い」として、未来の自分や

自分じゃない誰かにも託すことができるのだと

気づくことができた。

 

 

「私はあの時とても生きづらかったから、

 誰もが明るい未来を思い描けるようになるために、

 自分は○○をしていくぞ」

というように、物事を考えられるようになった。

 

 

人間はどうしても、叶えられなかったことや

できなかったことばかりに目を向きがちだけれど、

自分が叶えられなかったことは、

誰かの夢に託すこともできる。

 

 

就活は思っていた以上に疲れるしお金もかかるし

周りの情報に惑わされそうにもなるけれど

私は自分の願いを仕事にできるように、

忘れちゃいけない、大切にしたい思いを胸に抱え

自分のペースでしていけたらいいな、と思う。

 

 

 

 

 

 

夢縛り

 

どんだけ言葉を尽くしたって

自分が本当に伝えたいことは言葉にし切れないし

いつだって本当に伝えたいこととは

少しズレたことしか書けないでいる。

 

私は心に、どれだけの「下書き」をためているんだろう。

 

会話だって、そうなんだろうな。

 

ほんとのほんとのほんとのことなんて

みんなほんとに言葉にして伝えられてるのかな。

いやむしろ言葉にするとかいう段階の前に

自分のほんとの気持ちを100%正確に

理解することなんてできるのかな。

 

 

でもそもそも"ほんとの気持ち"って何だろうな。

私が今この瞬間言葉にした思いだって

ほんとの気持ちのはずだし、言葉にできずに

押し殺した気持ちだってほんとの気持ち。

 

 

就職活動において大切なこととは何だろう。

なるべく早く、一社でも多くの内定を貰うことが

正解ではないことくらい分かっているけれど、

それでも気付けばいつの間にか私は順調に

「就活生」になっていたし

全国津々浦々それなりに駆け回っている。

 

 

全国の就活生に揉まれながら、ふと考えた。

 

よそいきの自分を作って

自分の飾り方を完璧に身につけることが就活なら

そんな就活ってしんどいな。

 

 

でもきっと、こういう心のモヤモヤをも含めたものが

「就職活動」なんだろうな。

 

 

夢はある意味で

自分を縛り付けてしまうものにもなりうる。

「夢がない」という意味で。

 

友達が大学を辞めた。

やりたいこともなく、叶えたい夢もない。

目的なく入学して始まった大学生活は

思い描いていた"自由"とは違ったものだった。

授業だって、何一つ自分に響く内容のものには出合わなかった。

選択したのは、「退学」という道。

 

そんな彼女を

一体誰が責めることができるだろうか。

 

私には"頑張る理由"があるけれど

でもそれは、たまたまあっただけだったのかも知れない。

 

たまたま この大学で、たまたま この3年の間に

たまたま見つけることができただけなのかも知れない。

 

 

 

 

悲しみを感じるのが辛いからって

悲しむことすっとばしてたら

きっと心は壊れちゃうから

ちゃんと悲しむことってきっと大事なんだよね。

 


毎日それなりに全力で生きているけど

いつまで経っても自分に自信は持てないし

 

1年後の自分は、何か変わっているんだろうか。

 

 

夢を見つけて夢を語って

夢があったから繋がれた人がいて

夢を叶えたいと思い続ける毎日のなかで

 

それと同時に

この世界って一体なんだろうな、という気持ちになる時がある。

 

 

就活ってなんか、自分の人生提出して

採点されて添削される感じだ

自分のことを心の底からすきだと思ったことなんか

1回もない自分のことPRして

過去も現在も未来も引っ括めて

自分はあなたの会社に貢献できますよって報告するの

 


周りと自分を比べては自己嫌悪に陥って、でも、

周りから見た自分の評価が上がったり下がったりしたって

自分がいる位置が変わるわけでもなくて。

 

自分の本音は自分にしか分からなくて、

自分に正直に生きることが1番良いんだって頭では

わかっているけどでも実際そうはなりきれない自分もいて。


でも、どれもほんとの自分なんだ。

就活頑張りたいと思ってる自分も、

素の自分でいたいと思ってる自分も。

 

自分で選んだ道だろうが辛いことは辛いし、

吐き出して「よし明日も頑張ろう」って思えるのなら

溜め込むより吐き出して楽になるほうがよっぽど良いよね。

 

 


好きになれない部分を、願いに変えることもできる。

寂しさや悲しさや悔しさを思いやりに繋げることもできる。

 


私にしかできないことってなんだろうな。

私じゃなきゃだめなことってなんだろうな。

そもそもこういうことを求めすぎなのがだめなのかな。

 

 

でもやっぱり、どんだけ悩んで藻掻いたって

人生の岐路の選択を、悔いの残るものにはしたくない

っていう思いだけは確かにあるんだよなぁ。

 

 

 

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(2019.4.3 , Tokushima)

 

自分が叶えられなかった夢は

誰かの夢に託すことができる

最近その素晴らしさを知ったよ

 


素敵な先生になってね、

 

 

 

 

親とはね

自分の不出来が原因で、落胆している。

私にとって、親の1番見たくない姿。

 

勉強ができなくて、結果が出なくて

何度も何度も落胆させてきた。

 

「比べたことなんてないよ」

「あなたはあなただから」

 

どれだけ言葉でそう言われたって

実感として受け取ってきたのは

"こんな娘でごめんね"って

思わないわけにはいかない

申し訳なさと情けなさだった。

 

 

国立に落ちていたら、私という人間は

親の目にどう映っていたんだろう。

 

「合格」という結果が出なくても、

無気力の中の体力を振り絞って学校に行っていたこと

わかってくれていたかな。

 

まだ夜が明けない真っ暗なうちに登校して

夜が更けるまで勉強してたこと

理解してくれてたかな。

 

それともきちんとした結果が出なければ

それは「努力」として認められなかっただろうか。

 

なんの取り柄がなくたって、1人の人間として

ちゃんと認めてくれていたかな。

 

生きててくれてよかったって、思ってくれてたかな。

 

 

こわくて考えないようにしてるけど

ふと頭の中をよぎることがある。

 

 

 

子どもにとって親とは、唯一無二の絶対的存在だ。

 

どれだけ悲しいことを言われても

どれだけつらい経験をしてきても

それでもそんな親から愛されることを求めるのが子どもだ。

 

いい加減、自分の人生、

好きなように生きればいいのにって

自分でもそう思うけど

21になったって私には

「親に愛されていたい」という、

ほかのどんなものよりも強くて確かな欲がある。

 

この欲からは、一体いつになったら放たれるんだろう。

 

死ぬまでまとわりつくのかな。

 

 

 

「しつけのためなら暴力は必要だ」

という意見があるけど、本当にそうかな。

 

「暴力で、ある程度の痛さを教える必要がある」

と考える人も一定数いるけど

暴力によってしつけられるのはその子の良心ではない。

 

「これをすると殴られるから」やめておく。

そんなものが「教育」って言えるのかな。

 

暴力はきっと、「怯え」しか生まない。

 

 

 

親子関係って本当に様々で

たとえば同じ親から生まれて

同じ親に育てられたとしても

ものすごく優秀で立派な子どもが育つこともあるし

なんにも取り柄がない子どもに育つこともある。

 

 

なんで同じ親に育てられたのに

自分みたいな人間が育ってきてしまったんだろうな

 

勉強ができなくたって

有名な大学に入れなくたって

せめて周りの人を元気づけられるような明るさを持った人間だったらな。

 

 

 

いろんな意味でマイペースすぎて

大丈夫かなって自分でも思う時あるけど、

心の中に違和感が残るまま生きることが

1番自分を壊すって分かっているから

今日も明日もマイペースに生きる。

 

愛されたいだなんてほんとは言いたくないんだ

でもそう思っちゃったから

そう思うことがあったから。

この気持ちから逃げてたら

いつまでたっても私は私の人生を生きれない、

 

自分の心の声に正直に生きていくことが、

結局は誰のものでもない、

自分にとっての幸せにつながる道を

拓いてくれるんだと思う。

(こんな感情を吐き出すのはとっても辛いけどね)

 

こんな簡単なこと、どうして今まで

気づかなかったんだろうな。

 

でも、気づいた今だって

できれば周りに認められて生きていきたいという

気持ちがゼロなわけではないし

一生懸命社会に馴染もうとしている自分がいるのも

ほんとのこと。

 

 

大好きなのに大好きだけど大好きだから

私の中にはいつまでも"コンプレックス"として

存在するんだろうな。

 

 

 

頑張る理由

行事はずっと苦手だったけど

卒業式っていいものだなって初めて思った。

 


「卒業おめでとう」の意味が

初めて分かった気がした。

 


今まではずっと、自分を認めてこれなかったから

ただ学年を重ねて自動的に学校から出ていくことの

何がおめでたいんだろって思ってた。

 


自分は「卒業」したんじゃなくて

「卒業」という名のよく分からない感覚を

迎える日がやって来ただけ、そう思っていた。

 


「卒業」という言葉の重みを

自分の3年間の重みに比べた時

圧倒的に前者のほうが重すぎて

高校の卒業式はちっとも涙が出なかった。

 

 

成人式も行かなかった。行けなかった。

 


でもその日は、

「卒業おめでとう」って言われて

初めて素直に「ありがとう」って言えた。

 

 

私がここで過ごしてきた2年間は無駄じゃなかった、

無駄なものなんかじゃない、有意義なものだったって

心の底から初めてそう思えたから。

 

 


記念日も誕生日もそうだけど

その日になれば何かが急に変わるわけではなくて

節目の名前がついた行事を迎える時は

一体どんな気持ちでいればいいんだろう

そんなものに見合うほどのものが

私にはあるんだろうかって

純粋に楽しい気持ちで祝える軽やかさを持った人たちに

ずっとなりたかった。

 


人の節目に関しては

心から祝福する気持ちを素直に持てるのに

自分の番になると途端に胸がきゅっとなった。

 


でも、今なら分かる。

卒業するって、こんなに素晴らしくて清々しくて

「卒業おめでとう」って、

こんなに嬉しい言葉なんだって。

 

 

 

人生が、こういうものの積み重ねなら、

生きていくって素晴らしいな。

 


今まで過去を引き離して生きてきたけど、

気づけば自分の後ろに

自分を支えてくれる過去を築けていただなんて

素敵だな。

 

 

 

夢は語れば語るほど、現実になりやすいと言う。

言葉にすれば

自分でそう思っていることを自覚しやすくなるし、

何より、周りへの決意表明になる。

 

 

だからこそ、夢を語るのは、ちょっとこわい。

実現できなかった時、

これまで熱を持って自分を励ましてきた"思い"たちが

急に自分を追い立てるものになるから。

 

 

2月は勉強を頑張った。

用事がない日は毎日図書館に行って

向き合い続けてきた問題集は

気づけば4冊目に入っていた。

 

やったらやった分だけ報われるというわけではないから

常に不安を抱きながらではあったけれど

私には"頑張る理由"があったから

不安が自分を突き動かす原動力にはなっても

自分に苦痛を与えるものにはならなかった。

 

 

やることはやってきた。

だけどやっぱり

「就活解禁」とか言われると、不安になる。

 

 


「いっぱい泣いて笑ったね。

 それだけで私らの人生は、他の何にも

 変えられんよね。

 夏が終わっても行き先が見つからんかったら、

 ごはんに誘ってそっと励ましてね。

 就活頑張ろう。」

 

 

 

0時になった途端エントリーページが開設されて

いよいよ就活が解禁した。

未来を想像すれば不安が襲ってくるけれど

同じ道を歩んでいる存在がいる。

 


きっとそれが、今の私にとっての

"頑張る理由"だ。

 

 

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変化の種類

 

「インタビューやブログの書き方について

 お聞きしたいことが色々あるのです。」

 

と後輩から連絡をもらった。

 

自分に語れることはあるかな…と思いながら、

ついに私も、後輩からアドバイスを求められる

存在になったんだ、と嬉しく感じた。

 

 

「先輩はインタビューする時、

 どんなことに気をつけていますか?」

 

「ブログを書く時に、意識していることは?」

 

こんな質問がきて、

正直、ありきたりなことしか答えられなかった。

 

 

"言葉で伝える"というのは難しくて、

自分が経験してきたことも感じてきたことも、

その時の自分にとっては

本当に大きな出来事だったとしても、

それを乗り越えて言葉にしてしまえば

たったの1言や1行になってしまう。

 

 

 

例えば私は、夢を持って大学に入ったけど、

その夢が自分が本当にやりたいこととは

少しズレていることに気づいた。

 

1年くらいかけていろんな社会人の方や職員さん、

メンバーに話を聞いてもらって、なんとか進んできた。

 

でもそれは「その環境に入ったから」できたこと。

逆に言えば、団体に入れば、誰にでもできることだ。

 


環境を変えることによる「ソトからの影響」で

人は変われると思うけれど、

でもそれはあくまで受け身による変化でしかない。

 


自分の内側から込み上げる

「変わりたい」という思いが私にはあったから、

自分自身で変わろうと思って

ブログを始めたり旅に出たりした。

 


その結果、やりたいことをやることでしか

自分の未来は見えてこないと気づいたし、

「自分」がなければインタビューで聞きたいことも

出てこないのだと、体験として分かることができた。

 

 

でも、それらを言葉にしてしまえば、

「"自分"を持って

 やりたいことをやっていくのが大事だよ」

という1行で終わってしまう…。

 


相手がどれだけ凄い人であっても、

自分がその人の思考のレベルに達していないと

引き出せるものも引き出せない。

 


言葉を尽くして伝えたとしても、

相手に同じような経験をしたことがなければ

「文字として」でしか、その感覚は伝わらない。

 


逆も然り。

自分が体験したことでなければ、

自分自身が成長していなければ、

相手がせっかく素晴らしいことを伝えてくれていた

としても、その素晴らしさに本当の意味では

気づくことができない。

 

 


インタビューの仕方やブログの書き方について

話し合っていると、どうしても

"やり方"や"スキル"に着目しがちになるけれど、

でも、それよりも大切にしなきゃいけないことがあると

私は思う。

 

自分自身、どうなりたくて

あるいは、参加してくれる学生に、

記事を読んでくれている学生に、

どうなってほしくてこの活動をしてるのか。

 

 

それが明確に人に伝えられるようになれば、

自然とインタビューしたいこともしたい人も

挙がってくる。

 

 

インタビューしたい社会人を見つけるのも

この活動の課題について考えるのも

結局はぜんぶ自分の中にしか答えはなくて、

自問自答を繰り返すしかないんだと思う。

 

 

 

例えば、私の場合。

いろんな生き方を知って価値観を広げたいから

この団体に入った。

 


🐶じゃあ、なんで価値観広げたいの?

  価値観を広げた先に、どうなりたいの?

 

→今は、狭い選択肢の中でしか

 自分の人生について考えられていないから。

 

 価値観を広げた先で、

 自分が本当にやりたいことを見つけたい。

 

 

🐶なんで「本当にやりたいこと」を見つけたいの?

やりたいことをやらなくても、生きていけるじゃん。


→自分にしかできない生き方をしたいから。

 心がワクワクする瞬間を生きていたいから。

 

 

🐶私にしかできない生き方って何?

   心がワクワクする瞬間って、具体的には?

 

どん底を経験したからこそ体験した思いを

 活かすことができる生き方。

 

ありのままの自分をさらけ出せる人たちと

一緒にいる時。

 

 

🐶どん底を経験したからこそ体験した思いって?

→生きる苦しみ、生きる喜び。

 今は居場所がない人たちにも、必ず居場所が

 あるということを自分の生き方で証明したい。

 


🐶どうして「ありのままの自分」をさらけ出せたの?

→弱い、だめな自分も受け入れてもらえたから。

 

 

➞#居場所 #コミュニティ #生き方 をテーマに

 インタビュー行きたい社会人を探そう!

 


と思えた。

 

 

*****

 

 

変化にはきっと、二種類ある。

ソトからの働きかけによる変化と、

内面からの変化。

 

私がこの団体に入った一番の理由は

「自分がいる環境を変えてしまえば、

 自分自身を変えることができるかもしれない」

と思ったから。

 

これは、"ソトからの働きかけによる変化"

に期待してのこと。

 

だけど、

それだけでは殻を破ることなんてできないこと、

なんとなく気づいてもいた。

 

 

そしてある時から、心に刺さったまま

ずっと抜けない言葉があった。

 

だっぴにいるだけじゃ、だっぴはできない。

 

この言葉を目にした時、本当にその通りだなと思った。

 

 

 

きっと本当の意味での"変化"は、ただ待っていて

向こうから勝手にやってきてくれるものじゃない。

 

でも、このことだって、人から教わるんじゃなくて

経験として自分自身で気づく瞬間がなければ

あまり意味がない(というか、分からない)

ものでもあると思う。

 

 

本当に必要になれば人は動くものだし、自分だって

自分の生き方に満足したことなんて一度もないから、

そんな自分が後輩にあれこれと教えるのも

違うんだろうなぁと思う。

 

 

私は、自分の周りに

内面から「変わりたい」という思いを持って

行動を起こすメンバーが沢山いたから

自分を奮い立たせることができた。

 

これこそが団体にいるからこそ得られるものだと思うし

メンバーから吸収できることは吸収してしまえばいい。

 

 

 

 

人が変わる瞬間を何度も目にしてきた私は、

同期と先輩に本当に恵まれていたんだと

改めて気づいた。

 

 

あとは、自分の背中を見た後輩が何かを感じて

それが行動に結びついてくれれば嬉しいし、

自分がきっかけとなって

メンバー間の"変化の循環"をつくることができていたら

少しはこの団体に恩返しができたのかなと思うけど

それはやっぱり、そんなに簡単なことじゃないんだよなぁ。

 

 

相手の成長に影響を与えたり

変化のきっかけになったりすることができる人間に

なるには、今の比じゃないくらい

器の大きな人間にならなきゃいけないんだろうなぁ。

 

 

自分ら主体の活動が終わっても、

学ぶことの多い団体です…☺︎

 

 

 

 

 

自分のために生きるということ

 

 

感受性が豊かなので、自分のことではないのに

自分のことかのように落ち込んで

元気がなくなる時がある。

 

 

というよりもむしろ、

自分の身体の根源から生まれる悲しみよりも

人への共感から生まれる悲しみのほうが

私の人生にはずっと多いかも知れない。

 

 

感情に共感して行動を起こした時、人はよく

「ありがとう」と言ってくれるけれど、

私にはその言葉がどうしても素直に

受け取れないことがある。

 

 

むしろ、その人が望んでいるわけでもないのに

人の感情に勝手に共感して

その結果自分の元気が吸い取られるなんて、

なんて自意識過剰なんだろう、と思ってしまう。

 

 

 

 


最近、大好きなドラマがある。

「家売るオンナの逆襲」だ。

 

 

このドラマでは、多様な背景を持つ人々が

「家を買う」ことで交わっていく。

 


ゆとり世代団塊世代、同性愛、両性愛

働き方改革、女性の社会進出など

それぞれの"時代"を象徴するような風潮が描かれながら

ストーリーが進んでいく。

 

 


この時代の、このタイミングだからこそ

多くの人の心に響く可能性を秘めた作品だなぁと思う。

(何を偉そうに、って感じですね、ごめんなさい。笑)

 

 

 

 


今の社会は、

「前提の共有」ができない社会だな、と思う。

 


家族、仕事、生き方、働き方、大切なもの、

優先したいこと。

 

 

これらの言葉を耳にした時、

人によって描くものはきっとそれぞれ少しずつ

違っていて、

感じ方や考え方に優劣をつけることなどできない。

 

 

と言うものの、

社会一般的に考えられる「正解」は

おそらく多くの人が想像できるものでもある。

 

 

だからその分、自分の考え方と

社会から見た「正解」がズレていた時、

自分の内面に不安を抱くことがある。

 

 

 

(本当は"時代"なんて関係ないのかも知れないけど。

 

 人との違いが"見える化"しただけで、

 その違い自体は本当はずっと前から

 存在していたかも知れないから。)

 

 

 

多くの人はこう考えるんだろうな…

と想像できる意見とは

反対の考え方をしているな、と感じることが

私にはよくある。

 


分かりやすい(?)形

(たとえばLGBTQとか、障がいの有無とか)

でマイノリティだと感じたことはないけれど、

 

 

日常の節々で、

あ、自分はみんなとは感じ方がちがうなぁ…

と感じることは実は沢山ある。

 

 

 

 

 

私がこのドラマを好きな理由は、

このドラマの主人公が

 

頑張っている人を、だれ一人として否定することなく

その生き方を肯定した上で

 

いろんな葛藤や不安とともに生きている人たちを

励ます言葉を届けてくれるからだ。

 

 

 

 

時代や生まれてきた背景は人それぞれ違い、

皆がそれぞれの立場から人生と向き合おうとするけれど

 

一生懸命生きているからこそぶつかり合うし、

自分のことを認めてほしいと思う気持ちが出てくる。

 

 

このドラマを見ていると、

登場人物の背景や考え方にどれだけ違いがあっても、

あぁ、みんな、自分の大切な人や守りたいもののために

毎日必死に生きているのは同じなんだなぁ、

と思わされる。

 

 

 

そんな生き方は、とても立派で、格好良い。

 

 

 

だけど、

目の前にそれしか見えなくなってしまうと

知らず知らずのうちに誰かを攻撃したり

 

無意識のうちに「自分とはちがう」と感じた相手に

対して、否定するような言葉を発したりしてしまう

ことにつながりうる。

 

 

 

 

すべての言動に傷ついて悲しんでいたら

生きていけないから、

自分がショックを受けたり悲しくなったりした瞬間を

いちいち全て覚えてはいないけれど

 

 

過去を振り返った時、

「ほんとはあの時、傷ついてたのかも」

と思い返すことがある。

 

 

ぐっと思いがこみ上げてくるような台詞には

心を動かされたなりの経験が人生の中に埋まっていて、

 

 

過去を辿って掘り起こして考えてみると

だいたいそこには「ハッとさせられた経験」や

「胸をえぐられた経験」が眠っている。

 

 

 

他者の感情や人生を巡るストーリーを知ることは

潜在的に働いていた自分の中の感情の変化や

欲望を知ることにもつながるのだと気づいた。

 

 

 

 

私はきっと、多様な背景を持つ人たちのことを

知ることで、

自分がこれまでの人生のなかで置き去りにしてきた

感覚や感情を取り戻したいと思っているのだと思う。

 

 

あの時の自分は

もっと貪欲であってよかったし、

もっと素直に感情を表現してよかった。

 

人になんて言われようが思われようが、

自分が持っている可能性を、自ら閉じることなく

未来に希望を抱いてもよかった。

 

 

そしてあの時の自分は傷ついてよかったし、

「助けて」とSOSを求めてよかったのだと、

そう思いたいから、

人の想いに触れる度に

これほど心を揺さぶられるのだと思う。

 

 

 

社会一般的な「正解」や「正統」から

少しズレた感覚を持っていたとしても、

「少数派」や「異端」な考え方の自分を

否定しなくてもいいのだということを、

(自分の感情だけでは不安になってしまうから)

他者の思いや言葉に頼らさせてもらうことで

感じ取りたいのだ。

 

 

 

 

 


私には「人が人に寄り添える社会をつくりたい」

という夢があるけれど、

それはこの社会を生きる誰かのためでもありながら

本当は何より、自分のために叶えたい夢である。

 

 

正統じゃなくても多数派じゃなくても、

一生懸命生きていることを認めたいし認めてほしい。

認め合える空間の中で生きていきたい。

 

 

 

 

 

 

自分の夢は、どう頑張っても自分のためでしなくて

自分の人生も、どう頑張っても自分のためにしか生きれない。

 

 

 

「自分のため」を放って、「誰かのため」になんて

生きれないんだと思う。

 

 

 

でも、それでいいと思う。

それで充分だと思う。

 

 

 

自分のために生きる覚悟を持っているのだから、

心が震える経験と原動力を胸に、

力強く生きていける。

 

 

 

 

叶えたい夢もなりたい自分も

「ぜんぶ自分のためなんだ」と思うと

不思議と心が軽くなる。

 

 

 

 

自分のために生きる覚悟を

やっとこさ持つことができた私は、

ちょっとずつ大人になれているのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢の描き方の話

 

 

教育一家(?)に育ったので

自分の周りにいる大人は

親戚も含めてほとんどみんな教師だった。

 

 

花束なんて買う家庭じゃなかったから

普段は花束とは無縁の生活だったけど

 

卒業式や離任式の日には

生徒さんからもらった手紙や花束が

両手いっぱいに持って帰られてきて

立派すぎるお花がダイニングに登場した。

 

 

いつの日か親が家でピアノの練習をしていたせいか

全然知らない学校の校歌のワンフレーズを

今でも覚えている。

 

 

家族みんなでテレビを見ている時や旅行中に

生徒さんの訃報の連絡を受ける親の姿も

もう何度も目にしてきた。

 

 


当時小学生の私にとって

知らない市の小学校も特別支援学校も

"初めて出合う社会"のうちの1つだった。

 

 


教師という仕事のやりがいも大変さも裏側も

なる過程も

多分他の職業とは比べ物にならないくらい

沢山知っていると思う。

 

(他の職業のことを知らなすぎる、

 というのもあるけれど…)

 

学校生活で出会うのも

大人はみんな「先生」だったし。

 

 

 

だからか分からないけれど

物心ついた時からの将来の夢は

「先生になること」だった。

 


一応ちゃんと、理由もあった。

 


勉強を教えるというより、

みんなで戦争や平和について考えたり

命の大切さや人間としての道徳や倫理を教えたりする

授業ができる、そんな先生になりたかった。

 

(周りは何故かみんな道徳が嫌いだったし、

 夢を語るのは恥ずかしくて

 こんなことは人には言えなかったけど…)

 

 


その後は児童指導員という夢を追いかけながら

一応教員の道も考えていたから

教員免許がとれる大学に絞って受験した。

 

(結局、やっぱり違うのかも、と思って

 取るのやめたけど…

 

というより、

「先生になりたい」という思いと言葉だけが先行して

 

あれ、私、本当に先生になりたいのかな、

と改めて考えてみた結果、

 

 

私がやりたいのは

「教育」より「福祉」寄りだと気づいた。

 

そして、

教室という空間、学校という空間に限られること、

自分が1番力をかけてやりたいこと、

最低限こなさなければならないこと、

外野から求められること…。

 

 

いろんなバランスを考えて、私がやりたいのは

「学校」や「施設」などに入り込んでやっていくこと

ではないなと思った。)

 

 

 

 

 

せっかく夢を抱いて大学に入ったのに

また振り出しに戻ってしまった焦りから、

大学1年から2年の間、

ただ、漠然と「居場所をつくる人になりたい」

と思いながらも その夢を仕事にしている職業を

見つけることができなくて

 

職業を決めなければ

自分の進路について考えられない

と思い込んでいたから

 

その時の私は

自分の夢に「職業名」をつけようと躍起になっていた。

 

 


周りのみんなとも、いつも

「何になりたいか」しか話すことはなかった。

 

 


でも、本当は、その先にある

「その職業に就いてどうしたいのか」のほうが

大切なのだと思う。

 


いろんな人と出会い、様々な経験をし

たくさんの葛藤を経て、今の私はやっと

夢を見つけることができた。


というより、自分の経験から浮かび上がった

"心からの願い"を言葉に落とし込むことが

できるようになった。

 

 

なんだかものすごい道を通って

今に辿り着いたような気がしていたけれど、

 

でも、ブログを書いている今思うのは、

 

「あれ、私の夢って、小さい時から案外、

 同じだったんだな」

 

ということ。

 

 

 

あれこれ考えてぐるぐる思考になりながら

同じ悩みで何度も立ち止まり遠回りながらも

根幹にあった思いは幼い時からあまり変わっていなかった。

 


きっと、「夢の名前」ばかり考えすぎて

その名前に囚われて将来について悩んでいたから、

これじゃない、あれでもない、

夢がない、どうしよう!と焦っていたのだと思う。

 

 

 

*****

 

 


小さな時から私は、

人に見捨てられやしないかだけが

いつも不安だった。

 

 

悲しい気持ちはできるだけ封じ込めて、

楽しい気持ちだけを人に伝えるようにして

生きていた。

 

 


最後に自分を選んでもらえるのであれば、

と思いながら生きていたから

傷つけられるようなことがあっても

その度に許し、その人をずっと信じて生きてきた。

 

それが「優しさ」なのだと思い込んでいた。

 


でも、大人になって、

楽しい気持ちだけじゃなくて

悲しい気持ちを受け入れてくれる人たちと出会った。

 


ネガティブな気持ちすらも

私を私として認めてくれる人たちと関わるようになった。

 

喜怒哀楽の、いろんな感情を共有できる

喜びと素晴らしさを知った。

 


これまでの人生で、私が最も心を救われてきたことは

「自分のありのままを受け入れてもらうこと」だ。

 


だから、だから私は、自分の人生の中で

「ありのままを認め合えること」を1番大切にしたい。

 

 

小さなことで、喜んだり、怒ったり。

 


そういう感情を安心して出せる場所があること、

それらを共有できる関係を築けること、

その積み重ねが

私にとって何よりの喜びであり生きがいだ。


(本当はそれが1番難しいことだな、とも思うのだけど。)

 

 

 

今の私には、自分が大切にしたい思いを胸に抱えながら

未来を思い描ける、夢がある。

 

 

でも、「絶対にその夢を叶えたい」

という思いを持ちながらも、

「職業名」にこだわる必要もないのかな、

とも最近よく思う。

 

 


「どんな社会をつくりたいのか」

自分の言葉で、

自分なりの方法で想像できるようになったから

なんだかそれだけで、強くなれた気がする。

 

 

 

自分の夢に職業名をつけることだけが、

「夢を描く」ということではないはず。

 


日常生活の中で、心が揺れ動く瞬間。

されて嬉しかったこと、悲しかったこと。

 

 

「夢」と聞けば

なんだか壮大で物凄いものなような気がするけれど

でも、本当はそういう小さな部分に、自分の夢って

詰まっているのだと思う。

 

 

もっと小さく、今は名もない夢でさえ

これからはもっと大きく、もっと広く、

描き語れる社会になればいいなぁ。