はるちんのひとりごと。

自分の思いを自分の言葉で。楽しみも喜びも悩みも不安も悲しみもぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、共有すれば希望になる"

非日常の日常的空間

就活が終わった。

終わって1週間経って、やっとその実感がわいてきた。

 

 

会いたい人に会いに行けて

会議もミーティングも行きたくて仕方なくて

それは大好きなメンバーに会いたいからで

私にとってはあの時間(空間)が青春で、

会えば時間の縛りなく永遠に話せて

あぁ、日常が戻ってきたな…

去年の11月以来の、そんな感覚だ。

 

 

 

就活から開放されたという純粋な喜びもあるけれど

回り道しまくりの私の夢を応援してくれて

私の可能性を心から信じてくれて

とびきりの笑顔で涙を流しながら「おめでとう」

と言ってくれる誰かがいて

 

 

そんな人たちが、私が思っていた以上に沢山いて、

祝福されて、初めて実感できたことがある。

 

 

それは、私は全然、一人で戦ってなんて

いなかったということ。

 

 

(ここに書くまでもないくらい、当たり前すぎることなんだけど。でも、不安に駆られる日が続くと、そんな当たり前のことさえ忘れてしまうのだ。)

 

 

 

 

「触れてほしくない」という気持ちと、

これを口にすると、自分が小さく

見えてしまうんだろうな、という気持ちから、

心の中にある本当の気持ちをなかなか素直に

言葉にできなくて

 

言葉にしない日が続くと

頭のなかがぐちゃぐちゃになって

自分でも一体何が不安で何をすべきなのか

分かんなくなって

ますます内に閉じこもって…

というサイクルが続いていた。

 

 

終わった今だから言えるけれど

本当は、就活がすごく、こわかった。

 

優先したいのは、やりたいことなのか、環境なのか。

どちらも捨てがたくて選びきれなくて

最後の最後まで揺れていた。

 

それに、自分がやりたい仕事とできる仕事は、

必ずしも同じではないということも、

身を以って体感した。

 

やりたいことを仕事にしている人たち、

「夢を叶えた」人たちって、本当にすごいんだなと

心から思った。

 

それと同時に、「好きを仕事にする」だけではなくて

「その仕事を好きになる」ことも

同じくらい素晴らしくて立派なことだなと思った。

 

 

 

この選択で一生が決まるかもしれないこと。

地元ではない場所で働くことを選ぶと、「仕事」

以外のすべてを手放すことになるかもしれないこと。

 

 

 

 

私が口にしないから相手もきっと口にしづらくて

「本当はあの時、○○って思っとったんよ」って、

 

えーそんなこと思っとったの⁉

ってびっくりするようなこといっぱい言われて、

 

沢山迷惑かけて心配かけて

そしてそれ以上に沢山応援してくれとったんだな、

と思うと

 

色んなことに追われて「自分てなんて孤独なんだ」

と思い込んでた日々の真ん中にいた自分に

そのことを伝えたくなって

また同じようなことが起きた時のために

今こうしてここに書き残している。

 

 

「先輩の話を聞かせてください!」

と後輩から申し込まれたインタビューの20分前に

企業からお祈り電話をもらって、

全然笑えん状況だったけど

でも初対面のかわいい女の子がインタビュアーということで

しっかり笑顔で対応してなんとか無事に終わらせた後、

テスト期間を迎えた高校生いっぱいの自習室で

独りしっかりと涙を流したり、(笑)

 

 

大好きな友達が鳥取就職と聞いて、

鳥取で就職すれば、災害が起こった時に

すぐに帰れる距離じゃないし

仕事を手に入れる代わりにいろんなものを

放さなきゃいけなくて、

家族とか友達とかと離れ離れになってしまうけど、

 

でも、鳥取で作り上げてきた人間関係も

新しい世界に踏み出す環境が整っていることも

色んなとこに飛び込んでいく勇気も

私にとってこれまでの人生の何にも代えがたい

第一の財産だなぁと気づけたり。

 

 

正直就活は全然うまくいってなくて、

でもみんなの就活はどんどん終わっていって、

みんなのストーリーはキラキラで、

就活中は激病みだったわけだけど

 

 

やりたいことに向かって努力して、必死になって、心から全力で臨んで、時に悔しんで最後に笑えるようにがんばってるほうがキラキラだから

 

って励ましてもらって。

 

手を伸ばせば届く、

わかりやすくて簡単なものが目の前にあれば

思わずそっちに目を呉れそうになるけれど

 

それでも最後まで

大切なものを見失わず頑張り抜けたのは

最後まで私らしさを信じて待ってくれていた人たちがいたからで

そんな人たちへの感謝と恩返しは

一生かけて返していこうって

 

 

久しぶりなのに月並みなことしか書けなくて

ちょっと悔しいけど

そんなことを思っています。

 

 

 

 

 

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これは一昨日、友達が撮ってくれた

ヨーヨー釣りする私です。

友達がカメラを向けてくれてるうちに

釣りたかったのだけど意外と難しくて、

全然釣れなくて、やっと釣れた!のにその瞬間を

撮ってはくれてなくて、(笑)だからこの写真は、

ヨーヨー釣りに奮闘しとる時の写真です☺︎

 

 

 

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昨日は、学校教育と社会教育の違いについて

考えさせられる体験をしてきたのだけど、

ずっと行きたかった所に

まさかのタイミングで行くことができて、

まぁ、運悪く臨時休業中だったのだけど

それも笑い飛ばして

新しい体験を一緒にしていける喜びは

本当に本当に大きなもので。

 

 

 

仲間とのそんな体験は非日常的空間だけど、

知ってる顔がいっぱいいて

いっぱい話していっぱい笑って、

そんな空間は日常だな…って

不思議な感覚になりました。

 

 

未熟で未完成でちょっとダサくて

そんなことは分かっているけど、

それでもそんなの関係ないやと

今の自分のありのままをぶつけられる相手がいて

 

あーだこーだと喋り倒して一日が終わっていく、

そんな日常がとてつもなく愛おしいなぁと

いろんな人と話していて改めて実感しています。

 

 

就活終わったかどうかってすごく聞きづらいと思うので

こんなブログを書きました。

 

私の就活は終わったので、

もしも気にしてくれてる人がいたら、

どうぞ遠慮なく聞いてきてね。

沢山話しましょう☺︎

 

 

 

 

選んで捨てたわけじゃないものに

捨てるのが嫌で

何もかも捨てることができなくて

その結果、手放してきたものが腐るほどある。

 

 

ほんの一部の世界しか知らないのに、

その選択肢の中から

この先の人生が決まるであろう選択をするのが

とてもこわいんですと言ったら、

「大学に行くという選択をした時点で

 手放してきたものが沢山ある」

ということに気付いていないだけだよって

言われた。

 

 

そうか。

私はもう既に、いろんなものを手放してきたんだなぁ。

 

選んで捨てたわけじゃないものが、

捨てようと思って捨てたわけじゃないものが、

他の何かを手に入れるために

無意識に手放していた沢山のものが、

私にとっての「当たり前」を作って

体をカチコチに縛って苦しめていたんだな、

と気づいた。

 

 

そして同時に、捨てた意識もないものに

実は大切なものが詰まっていたかもしれなくて

こんなことを考えても仕方ないけれど、

「結果的に手放すことになってしまったもの」を

違う何かで埋めようとずっと探し続けてしまって

いたことに気付いた。

 

 

 

でも、と思う。

 

捨てた意識なく手放してきた何かがあるのなら

得ようとせずして手に入れてきた何かもある筈で

だけどそれって一体どんなものだろうって

考えてはみるけれど、自分じゃ全然分からない。

 

 

 

 

 

「その選択で、一生が決まると思うじゃん?

 決まらないから。」

 

 

あまりにも爽やかにそう言われて、

返す言葉を失ってしまった。

 

私にとってはおっきくておっきくて

目の前に立ちはだかっているこの壁が、

越えてみたら案外小さな壁だったりするのかな。

 

でもそれは経験したから言えること、

未経験の私にはそんな言葉まともには信じられなくて

むしろその言葉が種となって、

受け取った言葉が頭の中でぐるぐるしている。

 

 

 

誰かに決断を委ねたり

誰かのせいにできる人生は楽で、

ぜんぶ自分で背負っていくしかないんだと

気づいてから

背負って生きることが美徳なんだと

脳に思い込ませながら生きてきた。

 

 

 

壁にぶつかって挫折した時、私は人に

あまり相談をしない。

というより、したくない。と思ってしまう。

 

 

それは直接的な言葉で励まされることが苦手で、

ちょっと恥ずかしくて、

もらった言葉を素直に受け止め切れない自分がいたら

どうしよう、とかって思ってしまうから。

 

 

それに、直接的な励ましよりも

間接的に投げかけられた言葉のほうが、

その言葉によって自分が傷つくことを避けることもできる。

 

 

結論を出すための思考を放棄したくなくて、

たった1人で悩んで考え抜くことが必要なんだと

そう思いながら生きてきた。

 

 

悩んでいる過程も、出した「結論」の一部なわけで、

だったらその「過程」でとことん悩み抜かないと

納得のいく「結果」は出せないと思っている。

 

 

その人生を歩んできたその人だから成功したことって

山ほどあって、その「決断」自体に、自分の

人生に還元できるヒントがあるとは思っていない。

 

 

それよりも、その「決断」に至るまでのストーリーを

知ることのほうがよっぽど参考になると思ってしまう。

 

 

だけど、ずっと一人で考えていると

抵抗と防衛が邪魔をして、前に進めなくなる時がある。

 

何回も何回も同じ思考を繰り返しては、

自己嫌悪に陥ってしまう。

 

 

悩み終わった後で人に報告するのは得意なんだけど

現在進行形の悩みを

リアルタイムの感情を混ぜながら伝えることが

どうしても苦手で出来なかった私は、

昨日、ちょっとだけその壁を乗り越えてみた。

 

 

悩んでる自分を

等身大のままぶつけるのは勇気がいったけど、

言葉は案外自分の気持ちを丁度良く乗せて

運んでくれて、同じ温度で返ってきてくれた。

 

心がだいぶ、軽くなった。

 

何より、不幸せで不必要な思考のサイクルが止まって

くれるのは、他者が在ってからこそだな

と思った。

 

 

こういうふうに思える小さな積み重ねが沢山あったら、

今よりももっと軽やかな思考で

生きてこれたのかなー、とも思った。

 

 

 

でも、どの道を選んだって、その道自体が

ソトから見て正解だとか不正解だとかではなくて、

この私が選んだからこそ意味のあることが

きっとあるのだと思う。

 

 

何かを捨てることにこわくなりすぎてしまうのは、

いろんなものを捨ててきた上に自分の人生があることに

気付いてないでいるから。

 

 

 

大切なのは、捨てたもの/手放したものが

何なのかってことではなくて、

取捨選択の連続で出来上がった自分という人間が

歩んできた道を振り返った時、

その選択のすべてがなければ、悩みとか挫折を含めた、

そこから生まれる新しい道の「始まりの点」は

生まれなかったのだと

気付けることなんじゃないかな、と思う。

 

 

それが「自由になる」ということであって

しがらみや過去に縛られずに生きていく

ということなのかな。

そういうふうに生きていけたらいいな、って思ったこと

 

 

忘れないように

ここに書いておこうっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分のために生きるということ

 

 

感受性が豊かなので、自分のことではないのに

自分のことかのように落ち込んで

元気がなくなる時がある。

 

 

自分の身体の根源から生まれる悲しみと

人への共感から生まれる悲しみが、

私の人生にはたぶん、同じくらいある。

 

 

感情に共感して行動を起こした時、人はよく

「ありがとう」と言ってくれるけれど、

私にはその言葉がどうしても素直に

受け取れないことがある。

 

むしろ、その人が望んでいるわけでもないのに

人の感情に勝手に共感して

その結果自分の元気が吸い取られるなんて、

なんて自意識過剰なんだろう、と思ってしまう…

 

 

 

私はすごく、ドラマを見るのが好きなのだけど

少し前の「家売るオンナの逆襲」がとても好きだった。

 

このドラマでは、多様な背景を持つ人々が

「家を買う」ことで交わっていく。

 

ゆとり世代団塊世代、同性愛、

働き方改革、女性の社会進出など

それぞれの"時代"を象徴するような風潮が描かれながら

ストーリーが進んでいく。

 

この時代の、このタイミングだからこそ

多くの人の心に響く可能性を秘めた作品だなぁと思う。

(何を偉そうに、って感じですね、ごめんなさい。笑)

 

 

今の社会は、

「前提の共有」ができない社会だな、と思う。

 

家族、仕事、生き方、働き方、大切なもの、

優先したいこと。

 

これらの言葉を耳にした時、

人によって描くものはきっとそれぞれ少しずつ

違っていて、

感じ方や考え方に優劣をつけることなどできない。

 

と言うものの、

社会一般的に考えられる「正解」は

おそらく多くの人が想像できるものでもある。

 

だからその分、自分の考え方と

社会から見た「正解」がズレていた時、

自分の内面に不安を抱くことがある。

 

(本当は"時代"なんて関係ないのかも知れないけど。

 人との違いが"見える化"しただけで、

 その違い自体は本当はずっと前から

 存在していたかも知れないから。)

 

 

多くの人はこう考えるんだろうな…

と想像できる意見とは

反対の考え方をしているな、と感じることが

私にはよくある。

 

分かりやすい(?)形

(たとえばLGBTQとか、障がいの有無とか)

でマイノリティだと感じたことはないけれど、

 

日常の節々で、

あ、自分はみんなとは感じ方がちがうなぁ…

と感じることは実は沢山ある。

 

 

私がこのドラマを好きだった理由は、

このドラマの主人公が

頑張っている人を、だれ一人として否定することなく

その生き方を肯定した上で

いろんな葛藤や不安とともに生きている人たちを

励ます言葉を届けてくれるからだ。

 

 

時代や生まれてきた背景は人それぞれ違い、

皆がそれぞれの立場から人生と向き合おうとするけれど

 

一生懸命生きているからこそぶつかり合うし、

自分のことを認めてほしいと思う気持ちが出てくる。

 

 

このドラマを見ていると、

登場人物の背景や考え方にどれだけ違いがあっても、

あぁ、みんな、自分の大切な人や守りたいもののために

毎日必死に生きているのは同じなんだなぁ、

と思わされる。

 

 

 

すべての言動に傷ついて悲しんでいたら

生きていけないから、

自分がショックを受けたり悲しくなったりした瞬間を

いちいち全て覚えてはいないけれど

 

過去を振り返った時、

「ほんとはあの時、傷ついてたのかも」

と思い返すことがある。

 

ぐっと思いがこみ上げてくるような台詞には

心を動かされたなりの経験が人生の中に埋まっていて、

 

過去を辿って掘り起こして考えてみると

だいたいそこには「ハッとさせられた経験」や

「胸をえぐられた経験」が眠っている。

 

他者の感情や人生を巡るストーリーを知ることは

潜在的に働いていた自分の中の感情の変化や

欲望を知ることにもつながるのだと気づいた。

 

 

私はきっと、多様な背景を持つ人たちのことを

知ることで、

自分がこれまでの人生のなかで置き去りにしてきた

感覚や感情を取り戻したいと思っているのだと思う。

 

 

あの時の自分は

もっと貪欲であってよかったし、

もっと素直に感情を表現してよかった。

 

人になんて言われようが思われようが、

自分が持っている可能性を、自ら閉じることなく

未来に希望を抱いてもよかった。

 

 

そしてあの時の自分は傷ついてよかったし、

「助けて」とSOSを求めてよかったのだと、

そう思いたいから、

人の想いに触れる度に

これほど心を揺さぶられるのだと思う。

 

 

 

社会一般的な「正解」や「正統」から

少しズレた感覚を持っていたとしても、

「少数派」や「異端」な考え方の自分を

否定しなくてもいいのだということを、

(自分の感情だけでは不安になってしまうから)

他者の思いや言葉に頼らさせてもらうことで

感じ取りたいのだ。

 

 

(だからきっと、人への共感能力がとても強いのだ。

 と、最近気づいた。)

 

 

私には「人が人に寄り添える社会をつくりたい」

という夢があるけれど、

それはこの社会を生きる誰かのためでもありながら

本当は何より、自分のために叶えたい夢である。

 

正統じゃなくても多数派じゃなくても、

一生懸命生きていることを認めたいし認めてほしい。

認め合える空間の中で生きていきたい。

 

 

 

自分の夢は、どう頑張っても自分のためでしなくて

自分の人生も、どう頑張っても自分のためにしか生きれない。

 

「自分のため」を放って、「誰かのため」になんて

生きれないんだと思う。

 

でも、それでいいと思う。それで十分だとも思う。

 

このブログだって、書いているのは

「感情を言語化したい」からであって

これは完全に自分のためだ。

 

だけどちょっと前に

「はるちゃんのブログ読んでたら心が浄化される」

なんて最高の褒め言葉を言ってもらえて

物凄い嬉しくてその言葉ずっと覚えてて

 

でもそれは意図してやったことでなくて

「気づいたらそうなってた」ってことだから

これ以上嬉しいことはないなぁと思った。

 

私がやりたいのって

こういうことなんだよなって改めて思えた。

 

 

自分のために生きる覚悟を持っているから、

人から見たらまちがってても遠回りでも

分かりにくくても、心が震える経験と原動力を胸に

力強く生きていける。

 

自分のために生きる覚悟を

やっとこさ持つことができた私は、

ちょっとずつ大人になれているのかな…

なれてたらいいな、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水色のチューリップ

 

ちょっと遡るけれど、

ハタチの誕生日、中学校卒業以来連絡を

とっていなかった友人から

「ブログ読んでるよ」というlineをもらった。

 

実は中学校の時は、その子とはあんまり

仲良くはなかったのだけど

勇気を出してメッセージをくれたその子の強さと

優しさに、思わずスマホをぎゅっと握りしめた。

 

 

私がブログを始めたきっかけは

「変わりたいから」という思いがあったからだけど、

書き続けることができた理由は

「伝えたい何か」があったからだった。

 

 

人になんて思われるか。

どこにいても何をするにも頭の中に出てきて

私を縛り続けてきたこの考え方。

 

「人に何か思われるくらいなら」と

私が選んだのは、自分の感情を見せないように

することだった。

 

 

ブログを始めて沢山の人から反応をもらって

それがいつしか私がブログを続けられる原動力

となって、そして気づいた。

 

自分の思いを最も伝えたかった相手とは、

過去の自分だったんだな、って。

 

 

きっと誰の心にも、あるんじゃないかな。

 

コンプレックスとか劣等感とか

人生の中でのいろんな経験から

そっと胸に仕舞うことを決めた感情が。

 

タイムマシンでも現れない限り、時を遡って

過去の自分に自分の思いを伝えることなど

できないけれど

でも、「過去の自分へ」と思って書いてきたことが

温度を保ったまま「いまの誰か」に

伝わってくれていることがある。

 

 

弱さを見せたり、助けてって言えたり、

やりたいことやりたいって言ったりして良いんだ。

楽しいこと楽しいって伝えて良いんだって

教えてくれたのは、はるちゃんでした。

電話させてもらって号泣したこと覚えてて、

人の優しさにふれて温かくて嬉しいと思ったこと

忘れられないの。

それからは自分らしさ、多少自己中でも

良いんだって思って生きてる

 

自己満足かもしれないけど

自分の周りを笑顔にできなきゃ社会なんて変えられない。

 

私の原動力は私のすぐそばにいる人が笑っていること。

一生懸命生きてる日々の中で藻掻き続けている誰かが

自分の言葉で元気になってくれること。

そのためなら多少つらいことも乗り越えていかなきゃ。

 

 

 

 

武器になるもの何一つなくて

周りの人は有名な大学の人たちばっかで、

でも選考受けに行った時、

「何度も足を運んで頂いたこと、覚えていますよ。

 あとはその思いをぶつけるだけですからね、

 頑張ってください」って

人事の人に言われてすごい嬉しくて。

 

 

でも結果的に私は企業の人のその思いを

活かしきることができなかった。

筆記試験も論文も割と手応えあったのになぁ。

 


企業に落ちて初めて泣いて

悔しいなぁって。

 

 

 

大学に入って、もうずっと諦めていたことが叶った。

時間をかけて言葉を尽くして

思いを汲み取ってわかってくれる人たちに出会えた。

でもそれが叶って、そうじゃない人たちと

話さないといけなくなったときに

全然自分のこと伝えられなくなってしまって。

 

 

この社会にいるのは、自分のことをわかってくれる

人たちばかりなわけじゃないから。

 

もっと、なんだろうな、

きれいに語れる人生だったら良かった。

分かりやすくて、伝わりやすくて、

「あなたはこんな人なんだね」って

受け取られやすい人生だったら良かったなって

 

 

こんな思考に陥ってしまっていたけれど、

ずっと会ってなくても

自分のことを思い出して

連絡してきてくれる人がいて

私が元気でいるだけで喜んでくれる人もいるんだって

 

改めてそう思ったら、

人生なんて、まだまだこれからだよなって

やっと前向きになれた。

 

 

 

 

頑張ってることに満足し始めたら、おわりのはじまり。

また明日から、全力で生きるぞ。

 

 

 

 

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ちょっと前だけど、チューリップ見に行きたい

っていう夢が叶った。

 

ほんとは水色のチューリップを見たいと

思ってたんだけど、みれなかった。

 

 

(私はどうしてそれがあると思い込んでたんだろうな…)

 

 

 

 

ギリギリの状態で生きてる時に

頑張れなんて簡単には言えなくて言ってほしくなくて

そんな気持ちになった時

綺麗な景色を見に行こうって

誘ってくれる人がいる

 

 

そういう人との関係を、ずっと大事にしたいなぁ。

 

 

 

自分の価値は自分で決める

「自分の欲は他者の欲だ」って

いつか読んだ本の中に書いてあった。

 

人間の欲の根源を辿っていった先にあるものって

結局は殆どが「人から愛されたい」というものらしい。

 

「かわいくなりたい」も「モテたい」も

「賢くなりたい」も「出世したい」も、

結局はぜんぶ、「人から愛されたい」から出てくる欲。

 

 

私が仕事するのも、夢を叶えたいと思うのも、

人から信頼されて、必要とされて、

愛されたいと思っているからなのかもしれない。

 

ボランティアとかNPOの考え方に共感できるのも、

きっと根源には「誰かから必要とされたい」

という思いがあるからなのだと、

自己分析をしていて気づいた。

 

私がボランティアとかお金にならないことに

力を入れて取り組む意欲があるのも、

「誰かのため」とか「社会が良くなるように」

という思いで何重にも包まれたその真ん中に、

何よりも強い自己愛が眠っているからなのだと思う。

(こんなことには、気づきたくなかった。)

 

 

人から愛されることを願うことは

いつまでも無意識なものであってほしいな、

と最近よく思う。

 

 

 

愛されることを全ての軸として動いていたら

なんだか自分という存在がよく分からなくなってしまって

あれ、私って何のために生きてるんだっけ、

となる。

 

 

就活をしていたら、自分という人間が

本当によく分からなくなる。

 

私にとって仕事とは何で、

得意なことは何で、苦手なことは何なのか。

それはどうやったら仕事や会社に活かすことができて

どうやったら克服できるのか。

 

 

就活とは自分の人生を提出して採点されるみたいだ

と思っていたのだけど、でも、それはちょっと

枠にハマりすぎた考え方だったかなって

先日そう思い直すことがあった。

 

「やりたいこと」と「仕事」が重なる職業が

私にはたまたまあった。

やりたいことを見つけられない苦しさから

逃れることができたという意味では

それはとても有難いことだった。

 

でも、その業界を見つけてしまったら、

そこに合うように自分を当てはめようと

してしまっていることも、事実だ。

 

 

 

選考から落とされれば毎度の如く落ち込むけれど、

でもそれは私という人間の人格を否定されたわけではない。

 

その企業・業界が求めている人物像と

自分という人間が「合わなかった」ということなのだ。

 

 

…ということくらい頭では分かっているけれど、

でもやっぱり企業が求める人物像である(と表現できる)ために出来る事はやっていきたいし、

じゃあその一方で「等身大でありのままの自分」て一体

何だろうなーと考え始めている自分もいる。

 

 

ある子が言った。

「自分にはやりたいことなんてないし、基本的には

 お金がもらえたらどんな仕事でも良いと思ってる。

 仕事だけが人生の全てじゃないし

 奥さんと子どもを養うだけの経済力を持てたら

 それでいいんだ」って。

 

 

「仕事」とはお金を得るための手段だと割り切り、

そう言い切るその子の言葉に

求められていることばかりを意識しすぎて

自分を見失いそうになっていた私は

なんだかその一言で心が軽くなった気がした。

 

 

なんにも諦めたくないしこれからも自分に出来る

最大限の事はやっていきたいと思っているけれど

企業からの評価とはあくまで1つの面から

判断されたものでしかないということも、

忘れないでいたいと思う。

 

自分という人間の強みも弱みも表裏一体

見方を変えたら何にだって変わり得る。

 

自分にとっての幸せも大切なものも、

その価値は自分で決めたらいいのだ。

 

 

 

励ましたい誰かがいる時に、

自分の言葉だけじゃ

たったひとりの大切な誰かを励ますこともできなくて

 


心が燃える瞬間を

置いてきてしまった後悔は

きっと一生消えないまま纏わりついてくるんだろうと

久しぶりにこんな絶望感に浸っている。

 


私には分からない。

弾けるような青春も

すべてを忘れて何かに夢中になれる喜びも。

 


誰のことも嫌いにならないように

誰のことも攻撃しないように

そう思っていたら

いつの間にか誰よりも

自分のことを嫌いになって

自分のことを攻撃していた。

 

 

 

 

「不幸な人のまわりには、不幸な人が寄ってくる。

 幸せな人のまわりには、幸せな人が寄ってくる。

 だからまずははるちゃん自身が幸せになることが

 幸せになるために必要なことだよ」

 

 

 

いつまで経っても

一番わかってほしい人は

一番本音を言えない人のままだけど

私を励ましてくれたこの言葉を

死にたくて生きたくてもがき続けている

いつかの誰かにまっすぐ伝えることができるような

そんな人間になれるまで

まだまだ夢を諦めたくはないから

まだまだまだまだ夢を追いかけていたいなぁと思う。

 

 

 

夢託し

1年間休学してインターンしようか迷っていた半年前、

私の選択をすんなりと受け入れ

応援しようとしてくれた人と、

「なんでわざわざ休学?」と疑問に思う

(というより怪訝そうに聞いてくる)人とに分かれた。

 

年代が上がれば上がるほど

NPO」の名称や考え方は普及していなくて、

だっぴに入った時、宗教団体に入っているのでは

ないかと家族からは心配され、

自分の所属を説明するだけで、物凄く多くの

時間と言葉を尽くさなきゃならなかった。

(もちろん心配してくれるのはとても有り難いのだけど…)

 

 

「大学が高校化している」と言われているのを

最近本で読んで、納得した。

「大学が持つ意味」というのは

とても狭くなっているのかもしれないな、と思うから。

 

私には社会に伝えたいことが沢山あるのだけど、

その中でも最近特によく思うのは

誰もがもっと自由に夢を描いていいのだということ、

どんな選択肢も無条件に受け入れられ

応援されていいのだということだ。

 

「大卒」という肩書を得るためだけに大学がある

わけではないし、学ぶ目的や意欲なくして

ただ単位を取るためだけに通う大学生活は

なんだかすごく寂しいなぁと思う。

 

それに、大学とは学問するだけではなくて

学内外の活動を通していろんな人がいることを知り

自分の世界観が広がる、広げていく楽しさを

経験することのできる場所でもあると思う。

 

そして自分の世界を広げていったその先に

大学で学んだこととは全く関係のないフィールドに

辿り着くこともあるし、

学んだ内容が、思わぬところで自分に繋がってくる

こともあるかもしれない。

 

そういうことも含めて、自分の中の世界を

良い意味で壊してくれる、想定外で思いがけない

出来事の連続が

(しかもそれが人によってかなり変わるという)

大学生活の魅力のひとつでもあると思う。

 

 

こういうことを全部全部ひっくるめて、

私にとって大学とは

学ぶ楽しさを初めて知った場所だった。

 

自分の心を揺さぶられる学問に出会った時の衝撃は

今でも忘れられないほどのもので、

私からこの学問を除いてしまえば

学ぶ喜びや楽しさを感じることのない、

つまらない大学生活になっていただろうなと強く思う。

 

そして同時に、学ぶ喜びや楽しさに、もっと早い

段階で気づけていたら、自分に見えていた世界は

違うものになっていたかもしれないな、とも思う。

 

 

中学生の時の将来の夢は、教師になることだった。

それは「命や平和の大切さを子どもたちに伝えたい」

という思いがあったからでもあるけれど、

 

でも、それと同じくらいの熱量で

心の中にひっそりと、けれど確実にあったのは

「自分と同じように、学校の中で窮屈な思いを

している子の味方でありたい」という思いだった。

 

結局、教師よりもやりたいことを見つけたので

私は上に書いたことを実現することはできなかった。

 

 

でも、最近、自分には叶えられなかったその夢を

誰かに託すことができる喜びを感じることがあった。

 

 

高校までの私は、授業に国語があったから、

国語を勉強していた。

試験で高い点数をとることが受験につながったから、

勉強していた。

 

 

ゴールはいつも「良い成績をとること」であり

「受験に合格すること」だった。

 

 

でも、今になって思うのは、ただ知識を身につけて

学力という指標で自分を測る(測られる)ためだけに

受験という制度があるのではないということ、

テストで高い点数をとることだけに

学問の価値があるのではないということだ。

 

 

なぜそれを勉強するのか、

勉強した先に何があるのか、どうなれるのかを

イメージできる力があれば、私はもっと楽しく勉強

することができていたのかも知れない、と思う。

 

 

「ことば」とは全ての物事の基盤であり、

ことばが無ければ何かを考え創造することはできなくて

ことばが無ければ誰かに何かを伝えることもできない。

 

時代や国を越え、使えることばが増えれば増えるほど

思考は奥行きのあるものになり

より正確に自分の思いや考えを伝え

相手の言いたいことが理解できるようになる。

 

今ならそう分かるけれど、中学生の自分には

そんなことを考えようとしたことすらなかった。

 

 

だから、これから先生になる姉に

「なぜそれを勉強するのか」、

「学んだ先にどんな未来があるのか」

ということを考えるきっかけをあげられる先生に

なってほしいな、という話をした。

 

 

 

今まで、自分の行動の原動力になっていたのは

悲しみや怒りが多かった。

 

だから、同じ「夢」でも、否定形のことが多かった。

 

「自分みたいな思いをする人が生まれないように」

というように。

 

 

でも今は、自分にとって悲しかったことや

怒りの種になっていたものは、

「願い」として、未来の自分や

自分じゃない誰かにも託すことができるのだと

気づくことができた。

 

 

「私はあの時とても生きづらかったから、

 誰もが明るい未来を思い描けるようになるために、

 自分は○○をしていくぞ」

というように、物事を考えられるようになった。

 

 

人間はどうしても、叶えられなかったことや

できなかったことばかりに目を向きがちだけれど、

自分が叶えられなかったことは、

誰かの夢に託すこともできる。

 

 

就活は思っていた以上に疲れるしお金もかかるし

周りの情報に惑わされそうにもなるけれど

私は自分の願いを仕事にできるように、

忘れちゃいけない、大切にしたい思いを胸に抱え

自分のペースでしていけたらいいな、と思う。

 

 

 

 

 

 

夢縛り

 

どんだけ言葉を尽くしたって

自分が本当に伝えたいことは言葉にし切れないし

いつだって本当に伝えたいこととは

少しズレたことしか書けないでいる。

 

私は心に、どれだけの「下書き」をためているんだろう。

 

会話だって、そうなんだろうな。

 

ほんとのほんとのほんとのことなんて

みんなほんとに言葉にして伝えられてるのかな。

いやむしろ言葉にするとかいう段階の前に

自分のほんとの気持ちを100%正確に

理解することなんてできるのかな。

 

 

でもそもそも"ほんとの気持ち"って何だろうな。

私が今この瞬間言葉にした思いだって

ほんとの気持ちのはずだし、言葉にできずに

押し殺した気持ちだってほんとの気持ち。

 

 

就職活動において大切なこととは何だろう。

なるべく早く、一社でも多くの内定を貰うことが

正解ではないことくらい分かっているけれど、

それでも気付けばいつの間にか私は順調に

「就活生」になっていたし

全国津々浦々それなりに駆け回っている。

 

 

全国の就活生に揉まれながら、ふと考えた。

 

よそいきの自分を作って

自分の飾り方を完璧に身につけることが就活なら

そんな就活ってしんどいな。

 

 

でもきっと、こういう心のモヤモヤをも含めたものが

「就職活動」なんだろうな。

 

 

夢はある意味で

自分を縛り付けてしまうものにもなりうる。

「夢がない」という意味で。

 

友達が大学を辞めた。

やりたいこともなく、叶えたい夢もない。

目的なく入学して始まった大学生活は

思い描いていた"自由"とは違ったものだった。

授業だって、何一つ自分に響く内容のものには出合わなかった。

選択したのは、「退学」という道。

 

そんな彼女を

一体誰が責めることができるだろうか。

 

私には"頑張る理由"があるけれど

でもそれは、たまたまあっただけだったのかも知れない。

 

たまたま この大学で、たまたま この3年の間に

たまたま見つけることができただけなのかも知れない。

 

 

 

 

悲しみを感じるのが辛いからって

悲しむことすっとばしてたら

きっと心は壊れちゃうから

ちゃんと悲しむことってきっと大事なんだよね。

 


毎日それなりに全力で生きているけど

いつまで経っても自分に自信は持てないし

 

1年後の自分は、何か変わっているんだろうか。

 

 

夢を見つけて夢を語って

夢があったから繋がれた人がいて

夢を叶えたいと思い続ける毎日のなかで

 

それと同時に

この世界って一体なんだろうな、という気持ちになる時がある。

 

 

就活ってなんか、自分の人生提出して

採点されて添削される感じだ

自分のことを心の底からすきだと思ったことなんか

1回もない自分のことPRして

過去も現在も未来も引っ括めて

自分はあなたの会社に貢献できますよって報告するの

 


周りと自分を比べては自己嫌悪に陥って、でも、

周りから見た自分の評価が上がったり下がったりしたって

自分がいる位置が変わるわけでもなくて。

 

自分の本音は自分にしか分からなくて、

自分に正直に生きることが1番良いんだって頭では

わかっているけどでも実際そうはなりきれない自分もいて。


でも、どれもほんとの自分なんだ。

就活頑張りたいと思ってる自分も、

素の自分でいたいと思ってる自分も。

 

自分で選んだ道だろうが辛いことは辛いし、

吐き出して「よし明日も頑張ろう」って思えるのなら

溜め込むより吐き出して楽になるほうがよっぽど良いよね。

 

 


好きになれない部分を、願いに変えることもできる。

寂しさや悲しさや悔しさを思いやりに繋げることもできる。

 


私にしかできないことってなんだろうな。

私じゃなきゃだめなことってなんだろうな。

そもそもこういうことを求めすぎなのがだめなのかな。

 

 

でもやっぱり、どんだけ悩んで藻掻いたって

人生の岐路の選択を、悔いの残るものにはしたくない

っていう思いだけは確かにあるんだよなぁ。

 

 

 

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(2019.4.3 , Tokushima)

 

自分が叶えられなかった夢は

誰かの夢に託すことができる

最近その素晴らしさを知ったよ

 


素敵な先生になってね、