はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

夜の散歩道で考えたこと

 

 

どんな行動も

「できて当たり前」、「してくれて当たり前」

たるものなんてなくて

 

 

その"頑張り"や"思い"をやっぱり人に認めらながら

生きていきたいと思ってしまう。

 

 


今日は、お互いの生き方について

友人と盛大に褒め合った。

 


「なにを馬鹿げたことを」って

思われるかもしれないけど、

 

 

言葉にして褒めてもらうことがないと

自分でも気づかぬうちに

「認められたい」欲がむくむくと大きくなって

 

 

それがモヤモヤになったり、

「こんなにやってるのに、

どうしてわかってくれないの」

という気持ちになったりする。

 


私は私の行動をちゃんと見てくれていて

心を通わせてくれる、通わそうとしてくれる、

そんな人たちと一緒にいたい。

 

 

 

昔のブログを読んでいると、

 

「あぁ私、自分のことを分かってほしかったんだなぁ。

 人に認められることに、飢えてたんだなぁ」

 

と思うことがある。

 

 

(そのことに気づかず必死で文章を書いていた

自分がちょっとだけ恥ずかしい。)

 

 

 

今は、「褒めて褒めて」なんて思わないし、

自分のことを分かってほしいと思う人に

分かってもらえていることを

実感として捉えられているから、

感情の波はあれど、心は安定している。

 

 


人の喜びが自分の喜びと重なる時、

自分がここに生きている心地がする。

 

 

喜びを共有でき、悲しみを分かり合える友人がいる。

 

 

 

改めてそう気づけると、どんな経験も

不思議と光のようなものになる。

 

 

 

日常には、人の幸せが必要以上に覗けてくる仕組みが

うんざりする程たくさんあって、

ついついそれに翻弄されて

大切なものが見えなくなる時がある。

 

 

人を妬んだり蔑んだり嘲笑ったりしたって

自分のいる位置が変わるわけじゃないのに

 

 

余裕のない時は、人の幸せと自分の不幸を

結びつけてしまいそうになる。

 


(人が幸せになったからって

自分が不幸になるわけじゃないのに。)

 

 

 

でも、人を羨ましく思う、「いいな」と思う気持ちを

押し殺さなきゃいけないわけではない。

 

 

そこがこんがらがって、

 


『「人の幸せは人の幸せ」、

 「いいなって思ってもいいんだよね」、って

  思えなくなること』

 


が、長い時間かかったけど、やっとなくなってきた。

 

 

 

 (二重否定で読みづらい表現してごめんなさい。

  でも、

 『「人の幸せは人の幸せ」、

  「いいなって思ってもいいんだ」

   って思えるようになった』だと、

 私が伝えたいことと少しズレてしまうから。)

 

 

 

こんなふうに思えるようになったことは、

いつも自分と人を比べながら生きてきた私には

大きな成長だと思う。

 

 

 

そんなふうに変わることができたのには、

自分自身が変わった部分も

少しは影響しているかもしれないけれど

 

 

でも1番は、

自分を自分に戻してくれる存在と出会えた

(出会い直せた)ことが大きいと思う。

 

 

 

理不尽なことも悔しいことも

ほんとはいっぱいあるけどさ、

それをひん曲がった方向に持っていくのはでなくて

 

 

それはそれとして受け止めて、

不幸な方向に繋がれていく連想を食い止めてくれる。

 

 

 

私を私に戻してくれる人たちが沢山いるから

今日も私は私でいられる。

 

 

 

そんな人たちを、ずっと大事にしていこう。

 

 

 

改めて心に誓った、そんな夜でした。