はるちんのひとりごと。

自分の思いを自分の言葉で。楽しみも喜びも悩みも不安も悲しみもぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、共有すれば希望になる"

怒りとは何か -心の奥底に眠るもの-

 

 

久しぶりに、「書きたい!」と思って書くブログです

 

 

 

 

 

今日のテーマは、「怒り」。

 

 

 

 

 

ずっと、「怒り」って

持ってたらいけないものだと思ってた。

 

 

 

というより、怒りを持っている自分を

肯定することができないでいた。

 

 

 

何かにモヤっとしたり心に引っかかるものがあっても

それを感じてるのは自分だけなんだろう、

みんなはきっと

こんなこと頭の中にかすりもしないんだろう

とか思ってるうちに、

小さなことにいちいち引っかかっている自分に

気づかないフリをしている自分がいた。

 

 

 

 

 

みんながどんどん"大人"になっていく中で、

 

アダルトチルドレンとか思春期の延長と呼ばれるように


私はずっと、皆のようには"大人"になり切れなくて

そんな自分にモヤモヤしながら生きてきた。

 

 

 

 

(どうやら私は、母親に対して反抗期がなかったのが問題みたい…;

でも、それが問題ですと言われても、どうしたらいいのか分からない、)

 

 

 

 

分からない人には分かられないのだろうけど、

社会の何もかもを、するっと飲み込むことが

できない自分がいて、とてもしんどくて、

でも、滑らかに生きることを拒否する自分もいて。

 

 

 

 

 


でもそのモヤモヤを、社会を変えてく希望に

していけるんだと気づけたことがあった。

 

 

 

 

 

思えば、NPOとか地域団体とかって

社会課題解決を目的にしているけれど

そのきっかけにあるものって、

何かに対するモヤモヤだったり問題意識だったり、

その意識の大小は人や団体によって

異なるものではあると思うけれど、

 

 

 

ひとことでまとめてしまえば、辿っていった

先にあるものって、「怒り」だな、と思う。

 

 

 

 

でも、怒りを怒りのままにしていても

社会はきっと変わらない。

 

 

 

悪いものを悪いと叫び続けることより、

その悪いものをどうしていけば

光が見えるようになるのかを考えていくことが

大事なんだと思う。

 

 

 

*****

 

2月と3月の終わりに、

熊本と東北の被災地に行ってきた。

 

 

当時の行く目的としては、

「きちんとこの目で見て感じたことを大切にしたい」

というものだったけれど、今思い起こせば、

 

 

「年に1回やってくる3月11日、たったその1日だけに

 震災のことを思い出して黙祷をする自分」

 

に、違和感と怒りを感じていたのだと思う。

 

 

 


「黙祷」と聞いて1番に思い浮かぶのは、戦争のこと。

 


私は広島に生まれ育ったから、家でも学校でも

平和教育を受けて育った。

常日頃から戦時中のことを耳にしていたし、

テレビでもよくそういう内容のものを見ていた。

 

 


だから、日頃から平和に思いを馳せる自分がいて、

8月6日や9日、15日には毎年当たり前のように

黙祷する自分がいた。

 

 

 

 


でも、恥ずかしながら、3月11日の黙祷は違った。

 

 


震災のことを思い出すのは本当に

その日やその周辺の日だけで、

たった1分の黙祷が終われば、

震災のことを思い起こすことのない、

元通りの"日常"がやってくる。

 

 


それを何年も繰り返しているうちに、

「この『黙祷』をしている自分」に

果たして何の意味があるのだろうと

疑問に思うようになった。

 

 

 

 


あれだけ沢山の人が苦しい思いをしたのに。


津波の映像、崩れた街並み、テレビで何度も

目にしたじゃん。

 

 

 


年にたった1回思い出すだけの人間が黙祷をして、

もちろんそれが無意味なことだとは思わないけれど、

でも、私が被災者だったら、

その「黙祷」に何か心が救われるだろうか、

 

 

いや救われないな、

 

 

そう思った。

 

 

 

 


被災地に行くまでの自分にとって、

震災のことを思い起こすことは

"日常"ではなかったのだ。

 

 

 

 


でも、今は違う。

 


まだまだではあるけど、社会のことを

自分事として捉えるようになりつつある。

 

 


台風や大雨、地震、日本を襲う数多くの災害が起こるたびに、災害が関連することを自分の頭で考えるようになった。

 

 

被災者やその家族のこと。ライフラインの被害状況。

ボランティアや物資支援、災害時に気をつけることの確認、

復興災害のこと。

報道されなくなった後、「何もかも失くなった」

ところから生活を始める人たちのこと。

 

 

 

(1番変わったのは、"確実な明日が来ること"、"当たり前"なんてない、と思うようになったことかな…)

 

 

 


自分事として考えるようになったのは、

災害のことだけではない。

 

 

 


いわゆる"マイノリティ"と言われる立場にいる人たちのこと。

 

 

 

身体や心に障がいがある人。

同性を好きになる人。

学校に行けない人、行かない人。

特殊な能力や珍しい病気を持っている人。

働きたくても働けない人。

結婚しないことを選んだ人。

産まないことを選んだ人。

 

 

 

考え方や生き方、幸せや求めるものなんて

人それぞれのはずなのに、

いろんな方面で、悪意のない、無自覚の差別や偏見に

つらい思いをしている人たちのこと。

 

 


知ろうとしなければ

知ることができない人たちのこと。

 

 

 

 


私は、あの時感じた自分への違和感をどうにかしたくて

東北に行った。

 

 


そしたら、私の"日常"がガラリと変わった。

 

 

 

 

 


違和感や怒りは、それを抱えて生きるのは

しんどくて苦しいことではあるけれど

 

 


でも、それらが

「どうにかしたい」という気持ちに変わることで、

自分や社会を変えていくエネルギーになるのだと思う。

 

 

 

自分や社会を突き動かす、

強く、大きな原動力となるのだと思う。

 

 

 

 


違和感や怒りは、意識して生まれるものではない。

 

 


心の奥底で、無意識に生まれるものだ。

 

 


だから、「怒り」に、

正しい、も、正しくない、も

ないのだと思う。

 

 


感じちゃいけない、とか、

持ってる自分はおかしいとか、

そんなことを思う必要は

これっぽっちもないんじゃないかと思う。

 

 

 


むしろ、心に引っかかった小さなそのモヤモヤを
見て見ぬふりすることなく
きちんと向き合うことができるって、
大事なことなんじゃないかなと私は思う。

 

 

 


少なくとも私は、自分や社会に対して

「そういうものだから」とか、

「そんな小さなこと気にしてたら生きてけないから」

という理由だけで自分の中の違和感や怒りを

消してしまう人間になりたくはない。

 

 

 

 

 

私もまだまだ勉強中だから、

なに生意気なこと言ってんだって

思われるかも知れないけれど…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の「怒り」は、

無関心と無自覚が生む断絶社会と

あらゆる差別・偏見。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの「怒り」は、何ですか。