はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

夢を追うのは孤独だなぁ

 

 

何か(誰か)に縋って生きることは、不自由だけど

実はとても楽なものだと思う。

 

 

 

言い訳はできるし、責任も押し付けられるし、

うまく説明できなくても、矛盾していても

そんなどうしようもない感情を

その場その場で相手にぶつけることができる。

 

 

 

そして何より、そんな自分に気付くことなく

生きていける。

 

 

 

 

 

 

一方で、

 

 

 

自分を生きていくことは、自由だけど

とても大変で難しくて、時に寂しくなるものだと思う。

 

 

 

 

うまく説明できないもどかしさも

自分の中で矛盾している感情も

全部自分で向き合っていかなければならない。

 

 

 

(今まで自分がどれだけ何か(誰か)に縋って

生きてきたかを痛感しながら…)

 

 

 

 


(私にとって)自分を生きるとは、

何にも縋らずに、縛られずに生きていくこと。

 

 

 

こんな生き方が、できたらいいなと思う。

 

 

 

そして、少なくとも、前よりかは、

できるようになりつつあると思う。

 

 

 

 

でも、できそうでできないその真ん中にいる。

 

 

 


できたらいいなと思う気持ちと、もう何でもいいから

この葛藤と闘う時期をすっ飛ばして

楽に生きていきたいと思う気持ちが半分個ずついる。

 

 

 

 

 


未熟な私は、今は、決断から逃げたいと思ってしまう。

 

 

 

 

 

 

将来のことは、誰も教えてくれない。

 

 

勉強のことは、嫌ってくらいに

いっぱい教えてくれたのに。

 

 

 

 

でも、そりゃそうだよなとも思う。

 

 

 

自分が生きてきた道も、これから生きていく道も

 

誰かに教えられてきたものではないし、

誰かに教えられるままに生きるなんて

私じゃなくてもできることで

そんなのはとても窮屈なものだと思う。

 

 

 

 

 

 

(もっとちゃんと考えて大学を選べばよかったなぁ。

 

 

でも、福祉系を専門とする大学を選んでたら、

社会学と出会うこともなかったんだろうな、。

 

 

 

そしたら、この大学に入ってよかったなぁとも思う。)

 

 

 

 

 

 

夢を追うのは孤独だ、とタイトルにしたけれど

「寂しい」という意味合いだけで

このタイトルをつけたわけじゃない。

 

 

 

 

夢だけ見ていても、夢を叶えることはできない。

 

 

将来を考えることは、

同時に今の自分と向き合うことだとも思う。

 

 

 

 

 

孤独だと感じる時間は、

"自分との対話"の時間なのだと思うようにしている。

 

 

 

たった1人で過ごす沈黙の時間がないと、

私は自分の感覚や感情が分からなくなる。

 

 

 

 

自分の中にあるものも、

いろんな人の言葉や表情や行動を見ていると

気づかないうちにそれらに左右されて

自分のそれが知らぬ間に埋もれていってしまうのだ。

 

 

 

 

 

だから、孤独は寂しいけれど

私が私として生きていくために

私にとってなくてはならないものでもある。

 

 

 

 

 

いつかこの孤独を、

孤独じゃなくても言葉にできるようになったら

 

 

私は私を

誰かの前でも

(誰かの言葉や表情や行動に左右されることなく)

自分を生きられる人間として

確立させられるんだろうなと思う。

 

 

 

 

 

そんな日が来るのはまだまだ先だと思うけど

そんな日を夢見て、今日も孤独とたたかった。

 

 

 

 

 

*****

 

 

そういえば帰省した時に社会学の本を読んでいたら、

それを見ていた母に
「あんた社会学好きなん!」って
すごくびっくりされたことがありました。

 

 


なんで?
って聞いたら、

 


社会学は小難しくて母さんはきらい!


ってハッキリ言われて、

ちょっとショックを受けたのでした…

 

 


(まぁ社会学は好き嫌いがかなり顕著に表れる学問だなぁと、この学部学科にいたら日々感じるんだけど…)

 

 

 


『14歳からの哲学』とか

『14歳からの社会学』とか

『14歳の君へ』とか、

 

 

ちょうどその時そういう本に巡り会う時が重なっていて

 


なんで「14歳」なんかねぇ?
と同期と話すことがありました。

 

 

 


子どもから大人になる年齢じゃけんかなぁと
個人的には思います

 


小学生までは、

「自分だけの世界」で終わる(終われる)、というか、

自分は自分だと完全に割り切れるというか、

他者との比較なしに生きていけるというか、

他者を意識するまでには心理レベルで到達してないというか、

そういう意味で「子ども」なのかなぁと。

 

 


中学生くらいって、

「自分」と「他者(社会)」の距離を

意識したり感じ始めたりする時期なのかなって。

 

 


私は普段の生活の中で、無意識のうちに

「私」と「他者(社会)」と「世界」との

距離感とかつながりを考えちゃうんですよね、

 

 

(もちろん程度に差はあるけれど)

 

 


だから多分社会学が好きなんだろうし、

 

いろんな経験があったから

私は私になり切れなくて

どうしても自分を客観視してしまうというか、

常にもう一人の自分が自分のことを見てる感じがして、

他者を意識して初めて自分のことを

考えられるようになるというか

 

 

そういう意識とか感覚の全部ひっくるめて

もう社会学を自分から切り離して生きることが

できないのだろうなと。

 

 

 

この話をしていた同期は、

普段塾で講師としてアルバイトをしてるので

 

 

 

「大人として」彼らに色々な話をするのは容易いけど、中学生のときの繊細な感覚を失いたくない、、

 

 

と言っていました。

 

 

 

私は"日常"とか"当たり前"とか

そういったものにも目を向け

自分の頭で考える人が好きで、

自分もそうでありたいなと日頃から思っていて

 

 

 

大人になるって、特にそういったものに対して

疑いを持たなくなる(持つことを諦める)、とか

違和感や怒りを感じなくなる(忘れていく)

(感じることを諦める、忘れることを覚えていく)

ことでもあるなってなんとなく思うことがあるので

 

 

 

子ども心とか子どもならではの感覚とか

物事の感じ方は、ずっと忘れんでおりたいなぁと

 

 

 

 

同期との会話を通して
そんなことを改めて思いました。

 

 

 

 

 

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この前、金沢に行ってきたんですけど、

金沢に向かう特急の中から見た景色が

素晴らしすぎたのでここに載せときます。

 

 

(これを撮ったのは福井だったかな、)

 

 

 

綺麗な景色が見えるところ、

教えてもらえたら嬉しいです☺

 

 

 

ではまた👋