はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

引っ越しと後悔

部屋の片付けをしていたら、

高校の時の制服のスカートが出てきた。

 

コンビニの商品についてるシールを集めたら貰える

お皿たちも、10枚くらい出てきた。

 

使うか分からんけど、もしかしたら使う時が

くるかもしれんけん!って言って、

車ぱんぱんに荷物を積み込んで引っ越してきた

あの3月が懐かしい。

 

(高校の制服のスカートなんて、絶対使わんのに。笑)

 

そのキャラクターが好きなわけでもないのに、

「シールを集めたら貰える」というのが嬉しくて

貰えるお皿が変わるシーズン毎に

一緒に住んでた父さんにも協力してもらいながら

いつも必死に集めていた。

 

高校の時は、一緒に住んどったのに全然会話がなくて、

ちょっとした会話のやりとりがあったのは

そのお皿のシールを貰う時くらいだったな。

 

 

あとは、怒られる時くらいだったなぁ。

 

沢山怒らせた、(それ以上に悲しませた)

高校時代だった。

 

何時に帰るか連絡しなかったこと。

無愛想な態度しかとらなかったこと。

友達と遊びに行くことを、言ってなかったこと。

悲しませるような成績しか、とれなかったこと。

 

 

ビンタされたこともあったし、

置いてあったカゴを蹴飛ばされたこともあった。

 

 

 

 

なんか、いつも、異常に眠くて、

何にもやる気が起こらなくて、

おはようございますの挨拶をするだけで

自分が何点か評価されているような気がして、

家に帰りたくもなくて、

降りるはずのバス停通り越して

このままずっとバスに乗っときたいなって

いつもずっと思ってたな。

 

 

新しく住み始めたあの家は、

私にとっては家じゃなくて、

でも、こんな自分じゃ、実家にも帰れなくて。

 

 

高校に入学して最初の一週間が経って

母さんが家に来てくれた時、

涙がぶわぁって溢れてきたことがあった。

 

 

なんで泣いとるんか自分でも全然分からんくて、

泣いとることに気づかれたくなくて、

母さんは多分気付いとったけど気付いてないフリ

してくれて、何も言わずに一週間分のご飯を

作りだめしてくれた。

 

 

毎日23時頃に帰宅して、

誇れるものが何もない自分という人間の不甲斐なさと

劣等感に号泣しながら、一人でそのご飯を食べていた。

 

(よくもまぁこんなに泣けるなぁと思うくらい、

 毎日泣いていた。笑)

 

 

 

 

私はあの時、どうすれば良かったんだろう、

と思うことが、今でも何度もある。

 

何か昔のことを思い出すことがある度に

あの日々と同じくらい、こうして涙を流さなきゃ

いけないんだろうか。

 

今流れているこの涙は、どうやったら止められるんだろう。

 

今はもう、悲しくも辛くもないのに。

大丈夫なのになぁ。

 

 

 

「あの時、こうすれば良かった」

というのが見つかることなく、

「どうすれば良かったんだろう」

が、頭の中でぐるぐるしている。

 

 

今の自分があの時と同じ壁にぶつかったとしても、

どうすれば良いのかわからないままなのだ。

 

 

だから、この気持ちは、「後悔」とは少し違う。

 

 

こういう気持ちを、なんて言うんだろう。

 

 

 

 

 

 

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中学生と、だっぴをした。

 

 

初めて会ったのに全然人見知りしない中学生。

お互いのことを熟知し合って

意見も活発に交わせる中学生。

 

 

私が想像していた、シャイで無口な「中学生」は

そこにはいなかった。

 

 

その目は今目の前の景色をまっすぐに捉えていて、

彼女らが抱く未来への不安さえもまばゆく見える

くらい、キラキラだった。

 

 

 

就きたい仕事と、やってみたい仕事。

働くってどういうこと?

AIを使って、何したい?

村長になったら?

 

 

「村長になったら、1番にコンビニ作る!」

と言い張った中学生、めちゃくちゃかわいかったなぁ。

 

 

 

自分の長所が見つけられなくなっても、

あなたにはこんな良いところがあるよって

教えてくれる誰かがこんなにすぐそばにいること、

 


言葉にできない感情に悩んだ時、

あーでもないこーでもないと言い合える友がいること、

 

 

目の前に光が見えなくなった時、

手を差し伸べて一緒に歩いてくれる誰かがいることを、

ずっとずっと覚えておいてほしい。

 

 

 

思い返せば後悔だらけの日々も、

何年考え続けてもわからない問いも、

明日への願いとして生きていけば

少しは輝くものに、なるかなぁ。

 

 

 

 

こなさない生き方を

Happy Halloween🎃ということで昨日、

夜な夜なかぼちゃチーズケーキを作ってみたけど

うーんあんまり、というか全然うまくできなかった。

 

 

世間はハロウィンで賑わって(でもないか、)る中

私は今日、人生初登山してきた。

 

 

と言ってもはじめは登山するつもりなんて

全くなくて、最初は大山に紅葉見に行っただけ

だったんだけど

近くに滝があることを知って

「行こう!」ってなって出発した。

 

 

 

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こんな階段道を40分くらい歩いた先にやっと

辿り着いた絶景がこちら

 

 

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ブログ更新してももうそのことをSNSで呟くの

やめたから

一体このブログは誰に向けて書いてるんだろう、

って自分でも思うけど

 

それでも毎日誰かしらがこのブログのページに

来てくれてて、少数だけど読んでくれてる人が

いるから

これからもマイペースに更新していくつもりです、

(読んでくれてる人、本当にありがとう。)

 

 

 

 

私は花とか緑とか空とか海を見るのがすごく好き。

 

だから、こうして一緒に紅葉を見に行ってくれる人が

近くにいること、すごく有り難いなぁと思う。

 

 

今日は平日だからか、他の観光客は外国人か

老夫婦が殆どだった。

 

 

それでね、すごくかわいい風景を目にした。

 

おじいさんとおばあさんがベンチに座ってて、

おじいさんの手にはカメラがあって、

2人で自撮りをしていたの。

 

 

あー、年をとってもこういう関係でいるって

すごくいいなーって、思わずほっこり。

 

 

(ちょっと前に雨滝に行った時も

老夫婦が手を繋いで滝を眺めてて、その2人の

シルエットを見て心が癒やされたことがあったなぁ。)

 

 

登山してるとね、登山道ですれ違うと

「こんにちは」とか「ご苦労さま」とかって

皆さん声をかけてくださって、

そのうちの1組のご夫婦と少しお話をした。

 

見た目は50代くらいに見えたお二人、

なんともう80歳なんだって。

びっくり。

 

子どもを育て上げて、孫も大学生になったから

ご自分の人生を謳歌されておられるとのこと。

 

山に登るだけじゃなくて、

海にも潜るし馬にも乗るんだって。

 

すごく素敵で立派だなぁ。

 

 

 

自然は猛威をふるうことも多いけど

それでもやっぱりその自然が織りなす景色とか

風景には格別な美しさがあって。

 

その素晴らしさとか美しさを

自分ひとりで噛みしめる時間が必要な時もあれば、

一緒に見て分かり合える誰かがいる幸せを感じる

ことも沢山ある。

 

 

どちらかと言うとこれまでの自分は前者で、

今の自分は後者だなって、今日ふと思った。

 

 

 

友達はそんなに多くは要らなくて

自分のことを分かってくれる人は、ほんの少し

居てくれたらそれだけで充分だなぁと私は思うけど

 

でもそれがゼロになったら生きてけなくて、

こんなに美しくて素晴らしい自然を感じる心でさえも

その素晴らしい景色を伝えたいと思う誰かがいるから

その景色に思わず思いを馳せたくなる何かがあるから

目の前に広がる景色というのは

より一層美しく切なく見えるのかなと思う。

 

 

 

***

「こなさない生き方をしたい」と、最近強く思う。

 


受け取った優しさも感じた傷みも、

せめて自分の心には嘘をつかず、

分かりやすく小綺麗にまとめようとせず、

自分の心が動いたことを通して

人の心を動かせるようなものを作りたい。

 

 

 

「世界は鏡でできている」と言われるのは、

何かを感じるには、何よりも自分の心の状態が

1番に反映されてしまうからなのだと思う。

(それは良くも悪くも。)

 

 

 

 

綺麗な感情だけで説明できるものが美しいものだとは

ちっとも思わないから、

私は私の心が動いたままに

いろんなものを吸収して

 

吸収したものを自分の身体で濾過していくような

そんな生き方ができたら、

 

 

なんてことを考えてたら

今日は15000歩も歩いていたよ🐾

 

 

 

 

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こんな絶景をこの目で見ることができて、

幸せな幸せな1日だった。

 

 

 

 

思い出はキャラメル

新しいバイトを始めた。

1年生の時からしていたバイトにも復帰した。

 

家族以外の人と、初めてディズニーに行った。

ずっと行ってみたかった、小豆島に行った。

 

大学4年の秋になっても、新しい日々の連続だ。

 

 

毎朝化粧して、

ほとんど毎日料理するようにもなった。

 

(これは女子力じゃなくて、生活力のアップ。

 社会人になったら毎日メイクして会社行かんといけんけんね。

 濃いメイクは失礼、ノーメイクは無礼、

 就活で習ったこのルール。

 社会人って大変で難しい。)

 

 

初めてのことばかりに戸惑って

物覚えも効率も悪い自分を指導してくれる人がいて

優しく丁寧に教えてくれて

疲れた自分に「お疲れさま」と声をかけてくれる人がいて

 


1年ぶりくらいに復帰した自分のことを

覚えてくれているお客さんがいて

相変わらずいっぱいやらかしても

温かく教えて許してくれる人がいて

 

 

そんなあたりまえな日常だけど、

こんなに有難くて幸せな日々を、

噛み締めながら生きている。

 

 

 

私にとって旅は現実逃避のひとつだった。

 

でもいまは、「戻りたくない現実」ではなくて

「また明日も頑張るか〜!」と思える現実を生きている。

 

だから旅は、次の日常へと繋がるものになった。

 

 

 

最近、こんなツイートを見た。

 

桜林 直子(サクちゃん) on Twitter: "安住アナが「何度も箱から取り出して楽しめるような思い出があるのはいいですよね。思い出は年寄りのキャラメルです」と言っていたの、とてもいいな。キャラメルつくろう。"

 

 

そうか。

思い出はキャラメルなんだなぁ。

 

 

小豆島は、4年間一緒に過ごした同級生と行った。

 

これだけ一緒におっても知らん部分がいっぱいあって

お互いの育ちが交わる瞬間を沢山感じられる旅だった。

 

同じものを見ても、

心の動かされ方は人によって全然違って

 

その違いを感じる度に

違い方の違いってどこから生まれたんだろうなーって

そんなことを考えていた。

 

 

そして一緒に行った子の1人が

いろんなことを不思議に思う子で、


好奇心の種、何かを知りたい見たい感じたい

っていう気持ちは何よりも強くて

その人を形作る1番大きなものだなーと思った。

 

 

沢山の時間をともに過ごして

目の前に対峙している相手との違いを実感するなかで

違いの発見に心が煌めくこの瞬間は

自分の日常の中にずっと持っていたいと思った。

 


それと同じくらい、

「私」を形作る

知りたい見たい感じたい会いたい

きっとこれらはぜんぶ直感なのだと思うけど

その「〜たい」を大事にしたいなと思った。

 

 

 

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引くぐらい雨降ってたけど、

この天気じゃなきゃ見れない景色もあって

紅葉掛かってて本当に綺麗だった。

 

 

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(満開のコスモス!☺︎)

 

(世間を騒がす教育の話題は悲しいものが多いけど、

全国から集まった教育関係者の人たちのメッセージボード、

こんなに熱くてキラリと光る思いを持って

現場に関わってる人がいることが伝わってきて

すごく感動した。

 

今現場にあるそんな人たちの思いを潰してしまう

働き方、未来に向けて、どうか必ず良くなりますように。)

 

 

 

 

年をとればとるほど、自分のことを注意してくれたり

叱ってくれたりする人は減っていく。

 

だから、人は怒られるうちが華なんだ、

そう思って生きていく。

 

いろんなことに気遣って周りを見て行動していくこと。

ちゃんとずっと胸に刻んどこう。

 

 

と思いながらも、不機嫌そうに言われたり、

相手が機嫌悪いのが伝わってきたら、

「言い方に傷ついた、そんな言い方されて悲しい」

というより、「こわい」という気持ち、

その人への恐怖で涙が出てくる。

 

 

泣いとるとこなんて見られたくないし

すぐ泣けてくるのすごい辞めたいけど、

小学校の時からずっと治らんから

こうして生きていくしかないんかな。

 

 

玉ねぎのみじん切りで涙出てきたテイで

うちに帰って料理しながら、しっかりと涙を流した。

 

 

泣きながらご飯を食べたことがある人は、

生きていけるんだって。

 

泣きながらご飯を作ったことがある人も、

生きていけるよね。

 

 

 

人は結局、なりたい自分になっていく。

 

自分で自分のことを、あ、今の自分、嫌だな。

と思う時こそ、こう思うようにしている。

 

 

転んだことは過去のせいにできても、

起き上がらないでいるのは、今の自分のせいだから。

 

 

今目の前に見えてる景色が

自分が心から望んだ景色でないとしても

その景色の見え方を無意識に選んだのは

過去の自分だから。

 

 

今日は涙を流しても、

また明日から、前を向いて生きていくぞ。

 

 

 

 

***

 

親友が、私をイメージした絵を描いてくれた。

 

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めっちゃハートを大事にしとって、愛のメッセージを送り出していく。
それを読んで喜んでる人たちがいっぱいいて…って絵です

 

 

時々不安になることがある。


自分が幸せに生きることと、

それが人への迷惑となること。

素直に本音で生きることと、わがままに生きること。

 

今の自分はどうだろうって
考える時がある。

 

 

でも、こうして私の良い部分(?)を知って

伝えてくれる人がいるから

私は私のままでいいんだって思えて

安心して生きていくことができる。

 

 

あったかい絵を描けるのは、

描いてくれた子の心があったかいから。

 

 

多少の辛いことも、私にはキャラメルがあるから

乗り越えていける。

 

一緒にキャラメルを作ってくれる人がいるから

歩いていける。

 

 

 

いつかこの涙も、キャラメルになるかな。

 

 

 

 

 

 

 

暮らしを生きる

1ヶ月とちょっと前、3歳の時から一緒の

幼馴染みとともに

4年ぶりに中学時代の先生と再会した。

 

キラキラと瞳を輝かせながら話を聞いてくれる先生も

隣にいて爆笑し合える親友もあの時のままで、

昔の話をするのは少し切なくて

でも懐かしさに思わず顔がほころんで

あっという間の時間だった。

 

 

学校という空間はあまり好きじゃなくて

服装も時間割りも授業の進み方も全て決まっていて

吸うものじゃなくて読むものとして在る空気に

息苦しさを感じながら

好き嫌いも感性も「合わせること」が全てだった

あの空間で、同じ日々の繰り返しに

窮屈さを感じていた中学校時代。

 

 

でも、その先生が転勤してきた日、

神が舞い降りたかと思うくらい

目の前がぱっと明るくなった。

 

その先生との出会いが衝撃的で

卒業式の日に号泣したのは

あの先生とのお別れがとても寂しかったから。

 

 

「ロボットみたい」と陰で言われるくらい、

私は笑わない生徒だった。

 

もうちょっとうまく人との関係を築けたらな…

とは自分でも思っていたけれど、

作り笑いをしてそういう人間になることは

 

媚びへつらって駆け引きみたいに作られていく関係性や

周りに引き連れている友人の数でカーストが決まる

あの空気を自分で認めて

それはつまり自分の中で「負け」を意味していると

信じ込んでいて、できなかった。

 

 

でも、そんな自分にも

心を開いて関係を築いてくれる友人はいて

好意を持ってくれる人もいた。

 

 

今思えば、そういう人たちとの時間のおかげで

楽しいことも沢山あった。

 

 

そして今回再会した先生も、

間違いなく私の人生にとって光のような存在だった。

 

 

 

私が褒められることと言えばテストの点数くらいで

みんなには「控えめな性格」と思われていたからか、

「クラスみんなの長所を書きましょう」の

地獄のような時間では

「真面目」、「優しい」、「勉強熱心」の3つが

私の欄を圧倒的に埋めていた。

 

(本当に真面目な人からすると、「真面目」は

 褒め言葉なんかじゃないよね、笑)

 

 

「みんなからすると、私ってそういう

 イメージなんだな…」と思うと、

これまで以上にそういう自分であろうとする

自分がいて、自分で自分の首を絞めていた。

 

 

でも、その先生だけは、私の学力でも見かけでもなくて

感性とか心の内面を見て褒めてくれた。

 

 

自分が思っていることを、

初めて素直に伝えられた大人だった。

 

 

 

***

 

前シーズンのドラマ、『監察医 朝顔』を見て

感じたことがある。

 

 

それは、「日常を丁寧に生きる」ということ。

 

 

例えば朝食を食べる時にパンにつけるものが

マーガリンしかなくて

どうしてもジャムをつけたかったつぐみがぐずついて

そんなつぐみをお母さんが抱っこして冷蔵庫の前まで連れて行って

つぐみを説得させるシーンとか

 


保育園で友達と喧嘩して拗ねて帰ってきたつぐみが

お家に着いてもぐずついて

「このままじゃお母さん、ご飯も作れないし

 仕事にも行けないよ」と言ったら

つぐみがお母さんをぎゅっとしながら

「それでいい」って呟くシーンとか

 


法医学者として事件を解決したり

震災で不明になった母親との別れを乗り越えたりする

このドラマの主軸とは別に

 


絶対に必要なシーンなわけでもないんだけど

そういうシーンをすごく丁寧に描いてて

それが「日常」であり「暮らし」であり

「丁寧に生きる」ということなのかな、と思った。

 

 

 

 

そして、久しぶりに再会したその先生は、私にとって

自分の「日常」や「暮らし」を

生きさせてくれた人だったのかな…と思った。

 

 

自分の心が揺れ動く瞬間とか、

それは愛とか喜びとか綺麗な感情だけじゃなくて

嫉妬とか憎悪とか悩みとか

そういう感情が生まれる瞬間さえも認めてくれるような

そんな先生だった。

 

 

 

たった1人だとしても、

子ども時代にそういう大人に出会えることって

すごく大きなことなんだろうな。

 

 

 

私もそんな、大人になりたいなぁ。

 

 

 

 

出会いは選べない

自分が心を開いて話そうと思える人とは、

過去に辛い経験をしている人が多い。

 

優しさとはどこから生まれるんだろうって

ずっと考えていたけれど、

優しさの根源がある場所って

綺麗事には収まらない、触ったら棘が刺さるような

だけどどこに棘があるのか分からない

暗くて危険な闇のようなところなのかも知れない。

 

 

優しい人って、痛みを知ってるから優しくなった

んだろうな、と思うことがいっぱいある。

 

そういう過去を乗り越えて生きてきて、

強く優しくなった。

 

言い換えれば、強くなりたくて強くなったわけでも、

優しくなりたくて優しくなったわけでもなかった、

ということ…。

 

 

でも、例えば過去に辛い経験をした人でも、

その経験が「攻撃」として他者に向かう人も居る中で、

他人には優しくできても

誰かを攻撃する代わりに自分を攻撃してしまう人もいる。

 

表向きはにこにこ笑顔で幸せそうに見えても、

他者からの期待に応えられない自分を許せなくて

罪悪感を抱えて生きている人もいる。

 

 

そんな人たちの心を柔らかくできるような人になりたいなと、最近よく思う。

 

すべての人の心を柔らかくすることは難しくても、

せめて自分の周りに居る人、

自分を救ってくれた人のことを守れる人になりたいなと思う。

 

 

そんな人になることができて初めて、

私は私がこれまで受け取ってきた優しさを

自分のものだけで終えるのでなく、

違う誰かに循環して繋げていくことができるのだと思う。

 

 

 

 

自分の過去も嫌いなところも

全てをさらけ出して関わってきた親友が、

もうすぐ鳥取を発つ。

 

 

鳥取にさよならするときが来て、

鳥取で出会った人達みんなに感謝で

「ありがとう。」の気持ちで涙出てくるんや

 

と、ボロボロとこぼれる涙を必死にハンカチで

拭おうとする彼女を目の前にすると、私の胸も

熱くなって、目から涙が落ちてくる。

 

 

 

 

 

優しさを知るために辛い経験があるのだとしても、

辛い経験を肯定できるのは

それが「過去」になってからだ。

 

 

強くなるため、優しくなるために

しんどい経験しときなよ、なんて

私は1ミリたりとも思わない。

 

 

何かに怯えたり死ぬほど悲しい思いをしたりして

手に入れるものよりも

 

健やかに、心穏やかに成長した結果身についた

もののほうが、健全でまっすぐ、自分や他者を

受け入れることに繋がる生き方ができるのだと思うから。

 

 

はるこに出会って、こんなに自分のことを聞いてくれて親身になってくれる人がいたことを知って、

それから少しずつ人に思いを話せるようになって、はるこがくれる優しさを自分にもあげられるようになった

 

彼女からこの言葉を聞いた時、

ほんの少しだったとは思うけれど、

この子の心を柔らかくすることができたのかなと

思うことができた。

 

 

でも、その子との時間の中で

本当は私のほうが何倍も心を救われてきたし、

その子が居たから、自分の中の『安全地帯』を

広げることができた。

 

帰ってこられる場所をその子が作ってくれたから

安心していろんなことにチャレンジすることができた。

 

 

経験してきた辛かったことも

いつの間にか、その子と分かち合える

共通の引き出しになっていた。

 

 

 

血の繋がった親子だろうと、兄弟でさえも、

私たちは出会いを選ぶことができない。

 

それなのに、出会ってしまったその関係は

自分の命が果てる時まで

永遠に続いていく。

 

私はその子と出会おうと思って鳥取に来たわけでも

ないし、その子と出会ったのも

いろんな偶然が重なった結果だったのだと思う。

 

 

でも、選べない出会いの中で

私は自分が心から信頼して

心を通わせたいと思う人たちに出会うことができた。

 

 

それは決して多くはない人数だけど

少なくとも彼女と出会って互いに自分を出し合って

沢山笑って時には泣きながら語り合うことのできる

そんな関係を築ける幸せを感じて、

どうしようもないくらい霞んで見えていた

あの時の灰色の世界も

今ならほんのちょっとだけ許せる気がした。

 

 

 

 

「やりたいことをやる」というのは

自由な側面ばかり捉えられがちだけど

実際は物凄く責任の伴うことだ。

 

 

でも、そんなことはきっと

彼女自身が1番分かっていることだと

彼女の言葉を聞いていて強く感じた。

 

 

 

 

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一緒にご飯つくったり

美味しいケーキを焼いてくれたり

楽しかった思い出ばかり頭に浮かんでくる。

 

 

 

本当はお別れが悲しくて寂しくて仕方ない。

でも、彼女が自分の信じる道を行くことを

ずっと応援するんだと心に決めたから

最後は笑顔で送り出したいな、と思う。

 

 

 

 

 

 

盲目的に、愛していた日々

もっとほかに書くことあるだろう、と自分でも思うけど

久しぶりに感情が湧いてきて涙がぽとりと落ちたから

今日はこのテーマで書こう。

 

 

どれだけ凄いことをしている人でも

人への敬意を欠いた途端に協力者はぐっと減るんだなと

改めて思ったこととか

 

負けず嫌いな性格で、悔しさを感じる瞬間が

私の日常には沢山あって、

日常の所作すべてに自分の中の

「○○であるべき、△△よりは○○のほうが良い」

みたいな考え方がへばりついてきて

 

思い描く理想とはかけ離れた未熟な自分を

突きつけられる度に物凄く凹むのだけど、

 

ある人との会話の中で、でもそれって見方を変えたら

心のどこかで「できる」って信じてるから

悔しいと感じるのであって、それは誰よりも

自分の力を信じてるってことなのかな…

と思ったこととか

 

内定式を控えて、改めて決意表明というか

自分がその道に進もうと思ったきっかけを

見つめ直す機会があったこととか

 

初めて父さんにちゃんとした料理を振る舞ったら

感動して泣いてくれてでもそれを隠すために

すごい無口になっててすごい気まずくて

こんなことならいっそのこと飛び切り美味しくて

もうちょっと凝った完璧な料理を

練習しとけば良かったなと思ったこととか

 

 

ブログに書き残しとこうかな、

書き残しときたいな、と思うことが

本当はいっぱいある。

 

 

でも、以前よりも心がぶわーっと

揺さぶられることが減ってきて

 

それは自分という人間・軸がある程度形成されて

きたからなのだと思うけど

 

でもなんだかいろんな言葉が響きづらくなって

新しい映像が脳を塗り替えていく瞬間がぐっと減った

そんな自分に自分で寂しくなったりもして

 

書いては消し書いては消し、を繰り返してたら

あっという間に9月が終わろうとしている…。

 

 

私が過去のことを書くのは、

自分がどれだけ辛いことを経験してきたか

ということを伝えたいからではなくて

 

どれだけ今が楽しくて充実してても

そこからは切り離せない過去の経験が繋がっていて

そこを含めて話さないと

本当の自分ではないどこかの誰かのストーリーに

なってしまうと思うからであって、

 

決して「辛かったね」と思ってほしいわけでも

励ましの言葉がほしいわけでもないから、

逐一過去の話を出してしまう私を許してほしいな、

と思いながらこの文章を書いている。

 

 

 

ここから本題。

 

 

高校の時、それだけが唯一

毎日の楽しみだったものがあった。

 

それしてる時間だけは

劣等感だらけの自分のことも

いつどこで何してても脳内を支配していた勉強のことも

自分が自分じゃなくなるくらい憎しみを抱かせた

あの人のあの言葉も

何もかも全てを忘れて笑うことができた。

 

 

今思うと、現実から逃避させてくれるという要素が

私をますますそれに愛情を注がせていたのだとも思う。

 

 

言葉の通り、それは間違いなく私にとっての

生きがいだったし、

その存在がなければ私の心が癒やされる場所は

他にどこにもないくらい

私はそれにどっぷりとハマっていた。

 

 

 

今日、ふとその感覚を味わうことがあった。

 

そして、濃密な大学生活を過ごしている今、

もう忘れかけていたけれど自分にも

そんな期間があったのだと思い出された時、

 

というより、あんなにしんどかったことを

忘れられるくらいの日常を過ごせている幸せに

涙が溢れ視界がぼやけた。

 


高校の時は、それを盲目的に熱狂的に愛していて

今思えば狂乱状態だった。

 

自分でも「狂ってるな」と思うくらい、

優しさとかあったかい気持ちになれたのは

それをしてる時だけだった。

 

自分の中に、まだ動く感情があることを確認できたのは

それをしている時だけだったのだ。

 

 

 

でも、大学に入ってからは、好きなんだけど

高校の時よりもずっと温度感下がって

平熱(?)的にそれを見るようになった。

 

 

それは心を許せるもの、熱中できるものが

それ以外にもできた、というのもあるけれど、

 

狂うように愛していたあの感覚に再度陥ることで

あの日々のことを無意識に思い出してしまうのを

心(脳?)が勝手に避けてたんだなということに

気づいた時、また涙が溢れてきた。

 

 


過去とは残酷だ。

どんだけ克服したつもりでも

ふと思い出すと今でも自然と涙出てくるくらい

もう二度と戻りたくないと思うような日々だったから。

 

 

それを支えてくれてたんだな、

まさに日常に差す唯一の光のような存在だったな…

と思うと、ありがとうの気持ちでまた涙。

 

 

 

私にとってそれは、そういう存在だった。

 

 

好きなもの、好きだったもの、とは

決してそれ単体が

それを好きな理由として在るわけではないんだと思う。

 

 

だから本当に好きなもの、好きだったものって

キラキラな眩しさがある反面、

それを追い求めてる自分がちょっとだけ切なくて

 

それに気づかないようにまたそれを盲目的に

愛していたんだなぁ。

 

 

わかんないけど、そのことに気づいた今、

これまでよりももうちょっとだけ

自分のことを大事にできそうな気がした。

 

 

心をさらけ出してそれ一直線に突き進める何かがあることは

自分を忘れられる大切な時間を持っているということだ。

 

 

客観視ばかりして

自分の内側に完全には入り込めなくなってしまった

今の私にそのことを教えてくれたのも、

高校生の私が盲目的に愛していたそれだった。

 

 

 

 

 

好きなものとは、自分が思うよりもずっと

偉大なんだなぁ。

 

 

 

 

 

*****

 

 

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ちょっと前、砂丘の日の出を見に行った。

難しいこと全部忘れて

裸足で馬の背を駆け上った。

 

オール明けで顔はテカって

ダッシュして汗もかいたけど

すごく気持ちいい朝だった。

 

 

あんなに清々しくてあんなに楽しかった朝は

初めてだったから

 

おすそわけ…☺︎

 

 

 

こわさとわからなさ

この前、4月から同期となる人とお茶をした。

 

その前の日に初めて会った人だったけど、

この仕事を目指した理由とかやりたい仕事とか

私のことについてすごく興味を持って

いろいろと聞いてきてくれる人だった。

 


そしてその人も、

自分がこの地でこの仕事をすることの意味とは何か、

この仕事に就く覚悟を持ちながらも

その子の頭の中にある、煩悶とした思いや迷いを

時間をかけながらではあるけれど

素直に、じっくりと話してくれた。

 


「働く」ってどういうことか

働いたことのない私には未知の世界だから

今のところはまだ、分かったようなことは何も言えない。

 


将来の自分がぶつかるであろう壁を想像すると、

不安にもなる。

 


でも、今は、今のうちはまだ、

理想を語って、夢を追っていたいなと思っているんだ、

 

 

なんてこと、普段はあまり口にすることはないけれど

その子とそんな話をしながら、

自分の頭の中にある思いを整理していた。

 

 

 

 

 

私は一対一の人間関係を濃く築くのが好きで、

大人数相手だとすごく人見知りをしてしまう。

「浅く広く」の人間関係を築くのもどうしても苦手で

それが私の課題だなぁと思っていたけれど

 


「壁を作らずに話を聞いてくれる感じがしたよ

 そこが強みとして採用されたんだろうなって、

 わかりました」

 


と、こんなに嬉しいことを言ってもらえた。

 

企業の人が、私のどんな部分を見て

採用してくださったか

本当のところは分からないけれど

 

これから同期となる関係の人に

そんなふうに思ってもらえたことがすごく嬉しかった。

 

 

 

誰かと話している時、

壁作られてるな…と思うと、

その人のことを知ろうとする気持ちが

一瞬で薄れてしまう。

 

 

自分を守るために、

心を開いてこちらに耳を傾けようとしてくれた

誰かの気持ちを軽んじてしまうことは

できれば避けたいなと思う。

 

 

 

 

 

 

昨日は後輩と電話していて、

滅入った彼を励ませる言葉と方法を

一生懸命考えていた。

 


その中で、こんなことを思った。

 

 

外見がどうとか

こんな人間であってほしいとか

何をしてほしいとかしてほしくないとか

 


相手に望むことを挙げ始めたらキリがないけれど

 

 

究極「その人がその人らしくあれること」が

1番大切で、それさえあればあとは他に何もなくても

何もできなくても、それでいいなと私は思う。

 

 


滅入ってる時ってだいたい

「このままの自分を受け入れてくれる人はいるのか」

という不安が付き纏って、

 


いつものメンタルであれば気になりもしないような

小さな不安が、落ち込んだり元気がなくなったり

した時にはその不安が巨大な闇となって襲ってくる。

 

 

 

できたら素敵だけど、たとえ出来なかったとしても

人間としての価値が下がるわけじゃない。

 

あなたがあなたらしく元気に笑っていられることよりも

大切なことなんてないのだということを

言葉を変えながら何度も伝えた。

 

 

 

 

そしてもうひとつ。

その子は、「起こるかどうかはわからないけど

もし起こったらどうしよう」ということで

かなり頭を抱えて悩んでいた。

 

 

相手の本音を知ってショックを受けるのがこわい、

自分の本音を伝えて相手にどう思われるかがこわい、

努力に対して結果が出ないかも知れないのがこわい…

 

(まるで少し前の私のよう…。)

 

そんな話を聞いていると、

そういえば最近の私は、「こわい」って

思わなくなったな…と気づいた。

 

 

昔はこわいことが沢山あって

彼と同じようなことでめちゃくちゃ悩んでたけど、

でも、「やってみなきゃ分からない恐怖」に怯えて

何もできなくなるのは、すごく勿体無いことだなと

今なら思う。

 

 

だって、そのこわさを拭うには、

「やってみる」しかないわけだから。

 

 

 

「こわさ」とは、「わからなさ」の中にあるんだと

気づければ、案外いろんなことが

こわくなくなっていく。

 

 

 

私が思ってること、心の中で信じてること

それがどれだけ彼の心に響いてくれたかは

分からないけど

 

 

せめて自分の周りにいる人たちには、自分の言葉で

熱意を持って伝えていけたらいいなと思う。

 

 

 

たとえ心の中で思ってることが

100%そのまま伝わらなくても、

中途半端な状態でしか相手に伝わらなくて

伝えた後にモヤモヤが残ったとしても、

それでも、「何も伝えなかった」ということより

意味のあることだと私は思うから。

 

 


自分て、「伝えること」を諦めたくないんだなぁと、

改めて思った。

 

 

 

***

 

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他者と関わることで

自分の知らなかった一面に出会うこと、

出会いたくなかった自分に出会うこと

想像したら少しこわいような気もするけれど、

 

 

でも、それもそんなに怖くなりすぎなくても

いいのかなって、

なんとなくだけどそんなふうに思った。

 

 

むしろ、新たな一面に気付かせてくれる存在って

とても貴重で大切にしたいなと、

久しぶりにこんな、熱い気持ちになった。