はるちんのひとりごと

自分の思いを自分の言葉で。喜びも悩みも不安も悲しみも、ぜんぶひっくるめてこの生き方が、誰かの心を救えたらいいな。私の言葉が誰かの人生を照らせたら最高だなぁ。 "絶望だって、分かち合えれば希望になる"

サンタさんがくれたもの

 

 

クリスマスですね。

 

クリスマスと言えば、サンタさん。

 

 

 

保育所の時から中学校に上がるまで、

私はずっとサンタさんの存在を信じていました。

 

 

「サンタさんなんておらんよ」って言ってくる友達には

ふん!って思っていたし、

 

そう思っとるけぇサンタさん来んのんよ!と

本気でそう思っていました。

 

 

 

思い出してみれば、

うちの母さんは私たち子どもたちに

サンタさんの存在を信じさせるために

いくつもの細工を仕掛けていました。

 

 

 

オシャレが大好きな姉ちゃんがお店でカワイイ

靴を見つけ、嬉しそうに試着したことがあり、

だけど丁度良いサイズがなくて

渋々諦めたことがありました。

 

 

 

それから1ヶ月後くらいかな。

それがほしいと誰かがお願いしたわけでもないのに

その靴がサンタさんからのプレゼントとして

届られてた時は

 

 

「さすがサンタさん!言わんでもわかるんじゃ〜!」

と思うと同時に、

「ほら!やっぱりサンタさんはおるんじゃん!」

と誇らしい気分になったり、

 

 

 

 

(姉はテンションの上がり下がりが激しいので、

サイズがないと分かった瞬間からの

テンションの下がり具合はそれはもう

ものすごいものだったので

 

私としては、一度買うことを諦めたカワイイ靴を

サンタさんが届けてくれたあの時の衝撃と喜びは

本当に大きなものでした…笑)

 

 

 

 

 

小学校3年生くらいの時かな。

クリスマス直前に鏡の前で化粧をしてる母さんが、

「もうすぐ口紅がなくなる!どうしよう!!!」

と大声で叫んでたことがあり、

 

 

うちは田舎なので

買い物できるお店まで行くのに時間がかかるため

基本的に土日にしか買い物はできません。

 

 

 

だから、『必要なものがあれば必ず1週間前には言う』

というルールがあり、

 

 

口紅がもうなくなると母さんが叫んでたのは

ある平日の朝だったので

 

 

もし次の土日まで口紅が もたなかったら

母さん仕事行けれんじゃんどうするん。。

って本気で心配してたら

サンタさんからのプレゼントで口紅が届いてて、

 

 

「サンタさん…!!!(泣)」という気持ちに

なったりもしました。笑

 

 

 

 

 

(うちは家族みんなにサンタさんが来ていたのです☺︎)

 

 

 

 

欲しいものがあれば、

サンタさんに分かりやすいように

雑誌に書いてあるおもちゃをぐるっと丸で囲み、

 

去年のプレゼントのお礼と

今年のプレゼントのお願いを込めた

サンタさん宛ての手紙を壁にペタペタ貼っていく

イベントがあったのも、

 

今思い返せば、私たちが欲しがってるプレゼントを

知るためのものだったのかー!と、納得。

 

 

 

サンタさんからのプレゼントが

自分が本当に欲しいものではなくて

ちょっと落ち込んだこともあったけど、

 

サンタさんに分かってもらえるような言葉で

伝えられなかったということだから

サンタさん困っただろうなぁと

のんきにそんなことくらいしか考えていませんでした。

 

 

 

 

私の中でサンタさんは存在すべき

絶対的な存在だったので、中学校に上がった冬、

「実はサンタさんはおらんのんよ」とカミングアウト

された時はめちゃくちゃ落ち込みました。

 

 

 

でも、その時同時に母から言われたことがあり、

その言葉を今日ふと思い出しました。

 

 

 

 

「確かにサンタさんはおらんけど、でも、

 あんたのためにプレゼント何がいいかなって

 一生懸命考えて届けてくれる、

 その気持ちがサンタさんなんよ。

 

 じゃけん、あんたの心の中に

 いつでもサンタさんはおるんよ。」

 

 

 

 

中学校に上がってから

これまで当たり前に来てたプレゼントが来なくなり、

もうサンタさんは来ないんだ、と思うと

なんとも切ない気持ちになってしまってたけど、

今ではクリスマスが来る度にこの言葉を思い出して

なんだかあったかい気持ちになります。

 

 

 

 

だって、たった1年に1回かも知れないけど

大切な家族や恋人を想って

プレゼントを探してる人たちであふれる瞬間があるって

すごく素敵だなぁと思うから。

 

 

 

 

そして、きっとサンタさんは誰の心の中にもいて、

形あるものではないとしても

心をあったかくしてくれる誰かからの

"思い"や"気持ち"が私たちの周りには

たくさんあると思うから。

 

 

 

分かりやすい形でプレゼントをもらえるのは

クリスマスや誕生日と言った、立派な名前がついた

一年に一度の特別な行事の時だけかもしれないけど、

 

 

 

忙しなく過ぎていく日々の暮らしの中にも

自分の見えないところ・知らないところで

誰かの優しさが動いていて、気づかぬ間に

その優しさを受け取っているということが

たくさんあるのかも知れないなと最近よく思います。

 

 

 

目に見えるものや目の前で起こったことを信じるのは

簡単だけど、目に見えないところで回っている

誰かの思いや気持ちがあるということ、

 

 

 

"してくれて当然"の誰かの行動も

"あって当たり前"の日常生活も

その裏側には誰かの切実な願いや思いやりが

あってのことかも知れないということ、

 

 

 

 

やるべきことに追われてると、ついつい過程を忘れて

効率や結果を1番に求めてしまう時もありますが、

その結果が生まれるまでには

言葉にできないいろんな人の思いや考えが

巡らされてることもあって

 

 

 

そういうものに気づける人間でありたいなと

強く思います。

 

 

 

 

 

 

昨日は、もうやめたバイト先の忘年会だったのだけど

やめた身なのに受け入れてくれて、

また絶対戻ってきてねって言ってくれて、

 

 

 

バイトしてる時は

そんなに話せる時間があったわけではないから

お互いのことに関して相談したり

本音で話したりする時間ってそんなにはなくて

ほんのちょっとしかそういう話をしたことなかったのに

 

 

 

私がやってきたことや将来やろうとしてること、

いま頑張ってることをすごく理解してくれていて

 

 

 

あーこんなに応援してくれとるんだなぁって思うと

この気持ちに気づかずに必死でバイトしてた

あの日々にちょっとだけ戻りたくなりました。

 

 

 

 

 

誰かからの気持ちを大切にできたら、

この世はもうちょっとだけ まーるくなれる

そんな気がします。

 

 

 

 

 

そう思えるようになったのは、

何年間も本気で信じ続けた

私にとってのサンタさんが教えてくれたプレゼント

なのだろうなあとクリスマスが来るこの日に

そんなことを考えています。

 

 

 

 

 

今年はホワイトクリスマスになるかな?

 

 

 

 

 

誰かのために働いている人たちにも

素敵なクリスマスが訪れますように。

 

 

 

 

 

 

 

Happy Holidays!

 

 

 

 

 

「分かってほしい」が消えるまで

 

 

今日は、人材バンク主催の

「伝えるコツセミナー」というイベントに

学生ボランティアとして参加してきました。

 

 

 

講師の電通の方のお話は、

さすがだなぁと思わされるものばかりで

吸収したいことに頭が追いつかない状態でした。

 

 

 

 

 

 

「どうやって伝えるか」を考えることは

団体や活動の意義や目的、目指すものを考えることに

つながるということ。

 

 

 

「伝えること」とは、informationではなく、

communicationだということ。

 

 

 

学んだことや思ったことは

ここに書き切れないほどたくさんあったけど、

1番強く思ったのは

メンバーのみんなと一緒に受けたかったなということ。

 

 

 

 

こういうことは、自分1人ではなくて

メンバーみんなで考えて行動していくからこそ

それが次のゴールにつながったり

団体として新しい課題を見つけるきっかけに

なったりする。

 

 

 

 

でも、会議もイベントも

いつも回していくことに必死で、

常に時間とタスクに追われながらやってきました。

 

 

 


「自分たちの団体がどう見られているか」について

考える時間があったのだけど、

それを書き出してみただけで、

「なんだ、課題だらけじゃん。」と気づいた。

 

 

 

 

 

課題も目標も

この団体の良いところも悪いところも、

1人じゃなくみんなで見つめて考えるからこそ

この団体でやっていく意味があるのだと思うし、

 

 

団体としての目標はみんなにとって同じなはずなのに、

私が思い描くその目標へのベクトルの大きさやモチベと

私じゃないメンバーのうちの誰かが思うそれは

きっと少しずつ違っていて、

 

 

 

その違いを感じるたびにモヤモヤして

呑み込めば呑み込むほど

それはどんどん大きくなって。

 

 

 

 

 

 

なんだろうなぁ。

ただ「続ける」だけじゃなくて、

同じ思いを持って、同じモチベーションを持って

駆け抜けたかったなぁって

そんなことを思って、切なくなっちゃった。笑

 

 

 

 


本当の楽しさもやりがいも

自分で見つけようとするから見つかるものだとは

思うけど、

 

 

でも、それを見つけるのをサポートしたり

一緒にいろんなことに挑戦したり

結果的にはそういうことができなかったのだと

分かってしまうと

 

 

 

先輩としての役目を果たすことは

あまりできんかったんかもしれんなぁと思って

なんとも言えない気持ちになったり。

 

 

 

 

 

課題だって、自分たちの団体の何が課題かなんて

人に言われたから解決していくというよりも

自分たちで見つけていかなきゃきっと意味なくて、

 

 

「もっとイベントに行って人脈つくらなきゃだめだよ」

とか

 

「メンバーがだっぴしてないのに

 参加者をだっぴさせられるか」とか

 

 

 

 

確かにその通りなんだけど、

でも私は、そういうものは、できれば

メンバーと過ごす中で見つけてきたかったなぁ

って思うんです。

 

 

 

もっと自分から地域に出て行かないと

得られるものも得られないなぁとか

 

 

まずは自分が変わらないと

何を言ったって説得力はないし、

人を変えることもできないんだなぁとか

 

 

 

自分の経験としてそういうことを感じて

それをメンバーと共有して、

同じ志を持って活動してきたかったなぁって

 

 

そんなことをあれこれと思いました。

 

 

 

 

勿論、その時その時で起こってきたアクシデントに

一生懸命対応してきた結果が今であって、

 

 

 

私自身はこの団体に入って良かったと

心から思っているし、

1人じゃなくみんなで作り上げるからこその

楽しさや苦労、やりがいも感じてきました。

 

 

 

 

 

いくら参加者のことを思って作り上げるイベントであっても、

やっぱり1番は自分のために活動してきたことであり、

たった2年間所属しただけで

こんなに変わることができたという意味では

すごく大きなものを得られ、

かけがえのない時間を過ごしてきたと思います。

 

 

 

 

思うんだけど、

欲を言えば、

それをみんなで思いたかったなぁって

思っちゃうんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだか悲しい内容を書いてごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

でも、そう願いたくなっちゃうほど、

みんな大好きで素敵なメンバーだった

ってことなんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が思っていることを100%完璧に伝えて

分かってもらうなんてきっとできないけど、

 

 

 

分かってほしいなって思うってことは

それだけ相手のことを信頼していて、

思い入れがあるってことなんだろうなって思います。

 

 

(どうでもいい人に対して、自分のことを

分かってほしいなんて思わないですよね、)

 

 

 

 

 

 

 

 

「分かってない」は、「分かってほしい」の裏返し。

 

「分かってほしい」は、

そう思うほど自分にとって相手が

大きな存在だということ。

 

 

 

 

そう気付いたら、

できなかったことも叶えられなかったことも

いっぱいあるけど、

 

 

やりたいことやって、

自分にとって大事な人たちがいっぱいできて、

実はとても幸せな時間を過ごしていたんだなって

今日改めてそう思いました。

 

 

 

 

 

(うーん、できなかったことばかりに目が行って

 ついつい見失いかけてたなぁ…。)

 

 

 

 

 

 

これを伝えることで

人になんて思われるかを恐れて

言いたいことを飲み込む瞬間って

どんな相手であってもなくなることはなくて

 

 

 

過ぎたあとで、やっぱり言えば良かったなぁとか

本当は○○したかったなぁとか

色々思ってしまうこともあるけれど、

 

 

 

 

でも、まぁ、

 

 

 

「周りの目にはどう映るか」とか、

「全然話せなかったらどうしよう」とか、

そんな不安な気持ちになって

できない理由を見つけるよりも

 

 

自分の気持ちに素直になって

「行きたいから行く」ができるようになりました。

 

 

 

 

まだまだ小心者の自分だけど、

1人でイベント行けるようになるまでには

成長しました。

 

 

 

 

 

 

とさ。☺

 

 

 

 

 

 

自分の姿を見て、「変わりたい」と思ってくれる

誰かがいるって

ほんとにほんとに、嬉しいことだよね。

 

 

 

 

自分だけじゃなく、

周りの人たちを巻き込んで変わっていける

 

 

 

そんな人間に、なれたらいいなぁ。

 

 

 

 

おわり。

 

 

 

 

返したい恩があるのは幸せなこと

 

 

めちゃめちゃ今更感ありますが、

万引き家族」を見てきました。

 


(鳥取は映画が公開するの、めっちゃ遅いんだよ。

公開される映画の数も本当に少ししかないし、

帰省して広島帰ると、鳥取では見たこともない

聞いたこともないものが広島ではめっちゃ流行ってて、

こうやって文化の違いが生まれるんだなーと

思ったりする。)

 

 


当たり前すぎることだけど、私は私1人だけで

生きているわけではなくて

だけどたまにそのことを忘れてしまいそうになって

 


自分ってひとりぼっちだなぁとか

ついついそんなことを思ってしまう、私の悪い癖。

 

 

 

 

なんだろうな、自分が何かを与えないと

(相手からも好きになってもらえるような部分を

持っていないと)

愛しちゃいけない気がしてしまってて、

 

 

自分はその人を好きになるに値する人間かな

とかついつい考えてしまってて、

 

 

 

 

だけど万引き家族を見て思ったのは、

もっと素直な気持ちで人のことを好きになって

大事にしたらいいんだなということ。

 

 

 

 

 

人を好きになるのも大事に思うのも

理由なんていらなくて、

もっと自由にいろんなことを思っていいんだなって、

 

 

うまくは言えないけどそんなことを思いました。

 

 

 

 


これまで実家には

1年に2回しか帰省してなかったんだけど、


後期に入ってから就活のイベントやインターンの関係で

帰省したり、家族が旅行で鳥取に来てくれたりと、

2週間に1回くらいのペースで家族に会っています。

 

 

 


私が帰省する時はだいたい父さんの家に帰るのだけど、

私が帰省する度に、父さんはおでんやらカレーやらを

作って待っていてくれます。

 

 

 


高校の時、いっぱい怒っていっぱい張り合って
ほとんど口きかずに3年間終わっちゃって、

 


多分家族の中で1番関わりづらい存在だったと思うけど
私が帰省すると知ればこうしてご飯作ってくれて、


ちょうどこの時期に万引き家族を見たのも重なって


自分にとって家族とは何だろうと
改めて考えている自分がいます。

 

 

 

 

 

 

 

さて、私には、何に対してもどこか「申し訳ない」

と思いながら生きてしまう癖があります。

 

 

 

こんなに迷惑かけて申し訳ないなとか、

happyを振りまける人間じゃなくてごめんなさいとか

そんなことを思ってしまって、

 


そうしたら段々、申し訳ないと思いながら

生きていることに申し訳ないなと思えてきます。

 

 

 


そもそも、「申し訳ない」ってなんなんだろうな。

 

 


申し訳ないと思いながら生きてる自分って、

なんていうかある意味めっちゃ自意識過剰というか

思い上がってて傲慢だなぁとも思えてきます…

 

 

 

 

 


ある時、人に、

全然「申し訳ない」と思わなくても良いようなことに

「申し訳ない」と言われたことがありました。

 

 


そんなことを言われると自分は何も言い返せないし、

うまく言葉にできないけど

何とも言えない気持ちになってしまって

 

 


でも、同時に、同じことを私はこれまで何度も

いろんな人にしてきたということに気づいたんです。

 

 

 


こんな私にも高校の時からずっと

仲良くしてくれてる子がいて、

その子に対してどこかずっと申し訳ないなと

思いながら関わってきた自分がいました。

 

 


それはその子にとって自分が「良い友達」でありたい

という思いがありながら、

 

でも私は勉強もできないしテニスも下手だし

弱音も吐いちゃうしすぐ自己否定してしまうし

当時私が想像していた「良い友達」にはなれなくて、

 

そのギャップをずっと埋められなくて、

だから「申し訳ない」という気持ちに苛まれながら

毎日生きていて。

 

 

 

 

 


その子はただただ、

私を私として好きでいてくれてただけなのに。

 

 

 

 


今ならそう分かるんだけど、

いろんなものが敵に思えてしまってたあの時の自分は

その事実を素直に受け止められなくて

 

 

 

 

 

 

今になってふと気づいたのは、

 

思い返せば私はいつもその子に謝ってばかり

いたなぁということ。

 

 

 

 

そして、伝えるべきだったのは、

「申し訳ない」ではなくて、

「ありがとう」だったなって。

 

 

 

 

 

 

小学校で「謝」という漢字を習った時、

「ごめんなさい」という意味の「謝る」と

「ありがとう」という意味の「感謝」は

反対方向にある言葉のように思えるのに

どうして同じ字を使うのかって

 

担任の先生が一生懸命説明してくれたことが

あったのだけど

 

 


今ならあの時先生が言いたかったことが

なんとなく分かる気がするというか、

 

 

無意識に私は「ごめんね」と「ありがとう」を

混合させてしまっていたなぁと思いました。

 

 

 

「ありがとう」をたくさん言うことで不快に思う人は

きっといないと思うけど、

「ごめんね」を言い過ぎるのは

相手にも自分にもきっとあまり良くなくて、

 

 

 

不必要に謙遜しすぎることや

「申し訳ない」と思いながら生きることは

自分も相手もしんどいので

 

 

 

相手の好意や応援してくれる気持ちを

素直に受け止めることも大事なことだなと

思うようになりました。

 

 

 

(自分に自信がないと、好意すらも

 跳ね除けちゃうんですよね…よくない。☹)

 

 

 

 


今の私には、返したい恩がたくさんあります。

 


ここまで何不自由なく育ててくれた家族にも、

どんな時も私の味方でいてくれた友人にも、

たくさんのことを私たちに残し

教えてくださった先輩方にも、

多くのことを教え導いてきてくださった

先生たちや職員さんにも。

 

 

 

 


与えてくれたものや貰ったものが偉大すぎて

こんな自分でごめんなさいって

ついつい思いがちになってしまうんだけど

 

 

 


返したい恩があるって、

実はとっても幸せなことだなぁと思います。

 

 

 

 


まだまだこのままじゃ終われない、

返したい恩がたくさんあるからこそ、

自分の夢に向かって頑張ろうと思える。

 

 

 

すべてをプレッシャーに感じてしまう時は、

応援の言葉やその気持ちを素直に受け止めて

自分のペースで生きていけたらと思います。

 

 

 

 

 


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今日の日本海

帰省するバスの中から撮りました。

 

 

消したい過去や思い出したくないことも沢山あるけど、

生きてきた日々ぜんぶで自分だから

過去を抱きしめて生きていこう

 

 

 

そんなふうに思える、空と海でした。

 

"意味"は自分を救ってくれるか?

 

 

 

年内最後のぱんぴっとのイベントが終わりました。

 

 

 


最後から2番目のお題で

「理想の将来像」というのがあり、

 

 

「誰もが前向きに挑戦できる社会」、

「生きることを認め合える社会」と書かれてた

ゲストさんがいらっしゃり、そのフリップを見た時

なんだか泣きそうになってしまいました。

 

 

 

 

(自分がインタビューさせて頂いたゲストさんは、

生き方や考え方を少しではあるけれど知れているから

勝手ながらにすごく大好きになって

このお題はどんなこと書かれるのかなーって

ついつい気になって見に回ってしまうのだけど

 

 

 

今回自分がインタビューに伺ったゲストさんが

フリップに書かれてたことが

その方の生きてこられた道のりや人生観を

濃く表していて

 

 

その方の人生体験があったからこそ語られる

物語や言葉というのは何よりも説得感があって

ホンモノの言葉という感じがして

 

 

そういう言葉を持っておられるゲストの皆さんを見て

あぁ本当に素敵な社会人の方々だなぁと

改めてそう思いました。)

 

 

 

 

 

 

最近思うのは、意味がなくても生きていけること、

理由がなくてもそこに居られることの大事さ。

 

 

 


無条件に愛されるというのは、

意味や理由がなくても

自分が自分としてそこにいるだけで価値があると

思えることだと思うんですね。

 

 

 

日常生活の中で、意図的に傷つけられること、

自分がその場にいることに対して

他者から直接的に何かを言われること

(例えば「私と関わらないで」とか、

 「あなたはいらない存在だから」とか)って、

基本的には滅多にないとは思うのだけど

 

 

 

その一方で、

直接的な言葉ではない誰かの言動が

自分の存在価値を分からなくしたり

「自分が自分であるだけでここにいる価値がある」とは

思えなくなったりすることは、

実はよくあることだなと思います。

 

 

 

 

人は、受け取った言動がどんなものであれ、

愛されていると分かれた時に温かい気持ちになり、

自分が大切にされていないと感じた時に

怒ったり悲しくなったりするように

 

 

 

普段相手が思っている無意識の部分が無意識に働いて

無意識と無意識が重なって

それが言葉や行動として表れた時、

その内容が自分にとって嬉しいことであれば

幸せになるし

反対であれば幸せではなくなってしまう。

 

 

 

(難しいけど、だから「無意識」が1番人を

傷つけちゃうのかな、

 

 

そして「無意識」って、意識化することでしか

なかなか変えられない。

 

 

 

そしてその「意識化している」という意識が

なくなるまで自分のものになったとき、

今までの自分にはなかった、新しい「無意識」に

生まれ変わるんだろうな。)

 

 

 


自分が無条件に愛されていることを実感できる

関係というのは、

意味なんかなくても自分がその場に行きたい、

そこにいたいと思う関係で

 

 

これが双方にないとその関係って幸せには続かなくて、

相手に対して自分が、「安心して自分でいられるか」

というのも大切な観点だなと思います。

 

 

 

人のことを気にかけたり

大切に思ったりする気持ちも大切だけど、

同じくらい自分のことを大事にしたり

守ったりすることも大切で

 

 


双方向で心地よく、長く続く関係というのは

その人と一緒にいる時の自分のことを好きであれるか

ということも絡んでくるのかなって思います。

 

 

 

 


「その人のことを好き」というのと、

「その人と一緒にいる時の自分が好き」というのは

必ずしも同じことではないから。

 

 

 

(「好き」にも色々あるから、

 その「好き」の形によって

 自分自身やその人との関わり方を変えていくことに

 申し訳ないと思うとか罪悪感を持つのではなくて

 肯定的になれるようになったら素敵ですよね、

 

 


 その人のことは好きなんだけど、

 その人と一緒にいる時の自分のことは好きになれない

 ということがあるのは自然なことだし

 そこに苦しむ必要もないんじゃないかな、と

 思います。

 

 

 その人と一緒にいる時の自分のことは

 好きではないけど、でもそれでもその人と

 一緒にいたいと思うのであれば

 一緒にいればいいと思うし

 


 自分が好きな方法で

 その人のことを好きでいられたら

 それでいいんじゃないかなって私は思うんです。)

 

 

 

 

 

ちょっと話がそれちゃったけど、

私はずっと、自分が生きてる意味とか

そこに居てもいいと思える理由を

探していた時期があったのだけど

 

 

 

でも、例えばそうして長い時間をかけて

見つけられたものがあったとしても、

その理由や意味というのは果たして本当に

自分を救ってくれるだろうか?って

最近よく考えます。

 

 

 

 


ある時は、自分が生きてる意味って

何かを叶えるためかなとかって思ったりもしたけど

 

 


でもそれって同時に

何かを叶えなければ自分には生きている意味がないって

思ってることでもあるなって思って、

そしたら生きるのが全然楽しくなくなっちゃって。

 

 

 

 


生まれてきたから生きてるのかなって、

いまはなんとなく漠然とそう思うようになりました。

 

 

 

 


人生の理想や目標を持つことは大切だけど、

それが達成すべき絶対的な目的になってしまうと

それを達成できなかった時に

結局自分が自分を1番傷つけてしまうなって思うんです。

 

 

 

 

 

叶えられたら素敵だけど、叶えられなかったとしても

自分が自分としてここに生きていること自体が

否定されるというわけではないから。

 

 

 

 

 

人間みんな、もっと無条件に愛されて

無条件に生きていていいはずなのになって思います。

 

 

 

(いろんなことが原因で、簡単にそれが

阻まれてしまっている社会だな、と思います…)

 

 

 

 

 

 

 

大事なのはきっと、

「理由や意味がなくても

 自分がそこにいてもいいと思えること」。

 

 

 

そう思える関係や環境を大事にできるか、

作っていけるかというところに

生きやすさのヒントがあるのかなって

 

 

 

皆さんのトークを聞きながら

そんなことを考えました。

 

 

 

 

 

 

空が割れた日

 

 

16:23にアラームをかけて

スクランブルの信号に引っかかるか引っかからないかを

いつもひとりで勝負してた。

 

 

 

 

 

空回りしてる自分に悲しくなって

心と脳は別々なんだなぁなんてこと考えながら

 

 

 


なかなか上手くいかない現実に

悩んで戸惑って闘ってきた分だけの成果がほしいと

最善の選択をしたいと一生懸命生きてきた日も

 

 

 

 

わかってほしいことをわかってほしかっただけなのにと

涙を堪えた日も

 

 

3年間あっという間に過ぎ去って行った。

 

 

 

 

前日や昼間にどんなことがあっても

16:23から17時の間に

「人に見せられる自分」になった。

 

 

 

 

なんの話をしてるかって?

 

 

 

バイトを辞めてきました。

 

 

 

 

(バイトかーい!ってな、笑)

 

 

(そして上に書いたことはバイト中の出来事ではなくて

バイト中やその行き帰りに考えたことです☺)

 

 

 

 

「バイト」と一言で言ってしまえば簡単だけど、

私にとってバイトしてる時間は、6割くらいは

自分の思考を整理してる時間でした。

 

 

 

 

 

暇な時は本当に暇だったから。

 

 

 

 

 

スーパーにはいろんな人が来る。

 

学生もおばさんもおじいさんも赤ちゃんも

神対応なお客さんもそうじゃないお客さんも

みんな同じ人間なのに

買い物ひとつとってみても

どうしてこんなに違うんだろうって考えたり

 

 

 

ひどく傷つくことがあって

目の前のことから目を背けたくなったりした日は

途絶えることなく並ぶお客さんへ

集中してレジを打つことが

何もかも忘れられる現実逃避の時間になったり。

 

 

 

 

友達や知り合いが自分のレジに並んでくれると

本当に嬉しかったなぁ。

 

 

 

 

 

自己紹介もしないまま3年が経って

プライベートのことは殆どなんにも知らないけど

会う日を重ねるうちに

その日の出来事や忙しさを

いつの間にか笑って話せるようになった先輩も

 

 

 

いっぱいやらかして沢山迷惑かけてしまっても

優しく許してくれたパートのおばちゃんも

 

 

 

いろんな話に花を咲かせながら一緒に歩いた帰り道も

 

 

 

 

あたたかくて優しい場所だったなぁ。

 

 

 

 

 

学科やサークルは

どうしても自分と似たような人たちが集まる

傾向があるけれど

 

 

バイトは関わる人を選べない。

 

 

 

興味のあることも

勉強してる分野も多種多様な人たちと出会って

自分と同じだけ生きてきた人たちでも

こんなに違う世界を生きてるんだなぁって

実感したり

 

 

 

関わる人を選べない、いろんな人が集まってくる

このコミュニティの中で

大好きな先輩や同期、後輩に出会えたことは

本当に恵まれていたなぁと思うと心がじんわり。

 

 

 

 

バイト行くのが嫌で嫌で仕方なかった日から

今日は誰とシフト一緒かなーって

ちょっとだけワクワクしながら家を出るようになって

新しく入ってきた後輩の指導をする日が来て

 

 

慣れない手つきで接客をする後輩へのクレームを

自分に向けられた時は

大目に見てよって思いながらも

誰かのために謝れる立場になったんだなーって

実はちょっと誇らしかったりもしたなぁ

 

 

 

 

 

 

人間関係も

自分自身のことも

チャレンジしたことも

乗り越えたことも

本当にいろんなことがあった3年間だったけど

 

 

 

バイト先での自分はいつも誰かに助けられ、

「バイトの自分」としていられた時間が

弱々な自分を助けてくれた時もあった。

 

 

 

 

「ここでバイトして良かったなぁ」って

思える最後だったから

それだけで有り難いことだなと思います。

 

 

 

私は不器用なので、いろんなことが両立できなくて

どれも中途半端な状態になってしまっていたのが嫌で

言い訳をしない生き方をしたいと思ったから

バイトから一旦離れる決断をしました。

 

 

 

 

 

28のみんなは、普段自分がいる環境とは

かなり違う環境で生活してる子が殆どで

 

できそうでできない優しさを持っている、

本当に素敵なメンバーでした☺

 

 

 

久しぶりに会っても変わらず声をかけてくれて

立ち話なんかしちゃって

最後はエールを送り合ってバイバイする。

 

 

 

 

いっぱいいっぱいになって余裕なくなって

申し訳ないなと思うことが重なって

あーあってなりがちな私には

そんな些細なことでも

涙が出るくらい嬉しいことだったから

 

 

 

何気ない会話に何度も心を救われてきたなと

思い返しました。

 

 

 

 

将来を考えると、一体私はどうするんだろうと

自分のことなのに他人事みたいに思えてしまって

 

 

 

ほんとに就職するのかなって

現実感がなくなって

 

考えすぎて就職すること働くことがどんなことか

今の自分にとってどんな意味を持つことなのか

わからなくなって

 

 

 

この時期はもう本格的に将来を描けるように

なってないといけないのに

本音を言えばこんな時期を送っています。

 

 

 

 

でも、わかんなくなっちゃったからって

いつまでもそれから逃げられるわけではないから

ちゃんと向き合って考えなきゃだめだよね。

 

 

 

時給870円より価値のある時間にしていかなきゃ。

 

 

 

 

 

 

 

空を割るように差す光が

心の中にある不安も痛みもモヤモヤも

全てをかき分けるように

照らしてくれたらいいのになぁ。

 

 

 

 

 

 

 

話すことは手放すこと

 

 

不思議なもので、過去のことを誰かに話したり

何かに書いたりすると、

それまで自分の頭の中を占めていた思考のぐるぐるが

解けてなくなることがあります。

 

 

 

 

 

最近はたまにブログで過去のことを書いています。

 

 

 

それは別に過去の誰かに

何かを伝えたいからってわけではなくて、

過去をきちんと過去にしたいから。

 

 

 

私は感情を吐き出すのが下手くそなので

いつかのあの時の感情が

いつまでも自分の中に残っていることがあります。

 

 

 

 

月日が経ったという意味では過去のことだけれど

私の中ではまだ過去になっていないことがあって

それが今のもやもやに繋がっている時があるのです。

 

 

 

 

人間が死んだらみんないい人になるように、

どんな経験も、月日が経てば"いい思い出"になります。

 

 

 

でもそのいい思い出がつらいとしたら、

それはまだ過去になりかけの現実だからなんだって。

 

 

 

 

私には"いい思い出"として思い出せる過去が

あまりなくて、だから、もうやめたいんだけど

過去に引きずられながら生きていくことが

よくあります。

 

 

 

そんな時は、過去から目を逸らして

今の生活の充実度を高めることで

過去を埋めるようにして生きてきたのだけど

 

 

 

でも、その一瞬は過去から逃れることができても

長い目で見れば結局自分は何も変わらないまま

生きているな、ということに気づいてしまいました。

 

 

 

過去の自分も自分としてきちんと受け止められないと

本当の意味では幸せになれないなって

気づいたんです。

 

 

 

 

だから、過去のことを積極的に書くようになりました。

 

 

 

人に話すようになりました。

 

 

 

 

そうしたら、その時の感情に苦しくなったり

後ろ髪を引かれる思いで生きていくことが

少なくなりました。

 

 

 

 

 

何かにつけて脳内に出現していた過去の思い出が

今では頭の中に浮かんでこなくなりました。

 

 

 

 

やっと過去にできたのかなって

きちんと手放すことができたのかなって

 

 

そう思います。

 

 

 

 

 

 

 

人は普段、いろんな思いを抱えて生きています。

 

 

 

 

その思いを上手に吐き出せる人は

すごいなぁと思います。

 

 

 

 

なぜだか、私の身の周りには

思いを吐き出すのが上手な人たちが

あまりいません。

 

 

 

 

 

その人たちは、こう信じています。

 

 

 

 

自分が思いを吐き出すことで

誰かに迷惑をかけてしまうんじゃないかって。

 

 

 

 

 

優しいんです。

 

 

 

 

 

確かに思いを吐き出す"相手"は

選ばなければいけないかもしれないし、

 

 

 

あなたの中にある思いを素直に吐き出してよ

と何も考えずに言い切ってしまうのも

乱暴なことだなと思います。

 

 

 

 

でも、思いを吐き出すのを躊躇う理由が

「申し訳ない」という気持ちだけであるなら、

私には素直に吐き出してくれたら嬉しいな、と

思います。

 

 

 

 

優しすぎる人は

なかなか自分が思っていることを

伝えようとしません。

 

 

 

 

完璧主義な人は

自分の弱いところを見せるのが苦手です。

 

 

 

 

でも、思っていることをきちんと伝えることも

優しさかもしれないし、

 

完璧じゃなくても私はあなたのことを好きでいる

(完璧だからあなたのことを好きになった、

というわけではない)し、

 

 

 

 

思ってることを、みんながもっと

素直に言えるようになったら

もう少し生きやすくなるんじゃないかなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

話すことは手放すことだけど、

それは思いとサヨナラするというだけではなくて

 

 

それをスタートにして生きていく

ということでもあります。

 

 

 

 

いつも過去の感情を引きずりながら生きていくより、

新しい気持ちで生きていくほうが楽しいし

ワクワクします。

 

 

 

 

 

なんだか最近、もやもやしてるな…

 

と思ったら、

 

ねぇ聞いて!って

誰かに思いを吐き出すことも

うまく生きていく1つの方法なのかなって

 

 

 

 

久しぶりに自分の感情ときちんと向き合うことがあり、

そんなことを考えたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

沈黙の賛同者

 

 

人は賞賛や褒め言葉、感謝の気持ちを

なかなか素直には送ることができなくて

 

本当は好きなのに

いいなと思っているのに

 

なかなかそれらを伝えることが

できないでいることがあるな、と思うことがあります。

 

 

 

伝えられないと不安になるけど

でも、自分を応援してくれている人はきっといて

誰かに対する憧れや尊敬、すきだという気持ちは

誰の心にもあるんだよ、ということを伝えたくて

今日はこのブログを書きます。

 

 

 

 

*****

 

私は数学が苦手かつ嫌いすぎたので

高校ではいつも学年最底辺の点数をとっていた。

 


2年生の時に新採でやってきたA先生は

あまりにも馬鹿すぎる私のことを心配して

私の弱点とテスト範囲、

その近くにある模試の傾向を考えながら

その日解いてくる問題大問5題を一緒に考えてくれ

解いてきた問題の分からなかったところの解説をする

時間を毎日とってくれた。

 

 

 

 

 


授業に慣れていなくても

教えるのが上手じゃなくても

一生懸命授業してくれるところが好きだった。

 


私の学力をどうにかしようと

まっすぐ向き合ってくれるところが好きだった。

 

 

 

 

 

 

私にとって大嫌いな数学が

得意で好きでたまらない人たちが集まった

数学教官室に行くのは毎日毎日気が重かったし

 

 

若い男の人はなんとなく苦手だから、笑顔での

ありがとうは最後の最後まで伝えられなかったけど、

でも、今でもふと思い出すことがある。

 

 

 

 

 

 

3年間担任してくれたB先生は

かなり短気で気分屋な先生で

生徒からは正直あんまり好かれていなかった。

 


でも、1年生の時からずっと

私のことを気にかけてくれているのが伝わってくる

本当は優しくて面白い先生だった。

 

 

 

傷つくことを言われることもたくさんあったけど

でも、それは私に期待してくれているからなんだと

伝わっていた。

 

 

 

私が大学に合格した時

1番喜んでくれたのはその先生だった。

 

 

 

「努力が結果を残すことを証明してくれたね」

 

 

そう言って泣きながら笑ってくれた。

 

 

 

 

私は学校に対してあんまり良い思い出はないけど、

振り返って思い出すのは

生徒みんなに好かれ慕われていた

キラキラした先生たちだけではなくて、

 

 

底辺みたいな私のような人間でも見捨てることなく

最後まで私の力を信じ待ち続けてくれた

そんな先生たちの優しさと強さだ。

 

 

 

きっと私しか知らない

私1人のためだけにとってくれた時間、

かけてくれた言葉が

 

光の線みたいになって

今の私を支えてくれることがある。

 

 

 

 

もちろん毎日毎日そのことを思い出すわけではないけど

でも、悩んで落ち込んで前が見えなくなって

真っ暗な闇に覆われた時

頭の中に降ってくるのは

そんな先生たちがくれた光の線なのだ。

 

 

 

 


私のことを一生懸命救おうとしてくれた人たちのことを

思い出すと、私は簡単に人生を

投げやりにしたりしちゃだめだ、と強く思う。

 

 

 

 

 


私は自分でも引くほど自分に自信のない人間で

誰かと会って、「よし、大丈夫、頑張るぞ」

と思えても、またすぐに思考がぐるぐるして

不幸せな同じ思考のサイクルに陥ってしまう。

 

 

 

 


だけどそんな時

決して人気者ではないけれど

死にそうになりながら生きていた私の心に

出会ってからお別れするまでずっと届け続けてくれた

その先生たちの優しさと強さが

私を奮い立たせてくれる。

 

 

 

 


ここに書いたのは高校の先生だけだけど

小学校にも、中学校にも、そして大学にも

 

 

決して人気者ではないけれど

私の心に光を灯し続けてくれる人たちの言葉が、

思いがある。

 

 

 

 

 


私は性格的に人気者にはなれないし

いつも明るさ100%で元気づけることは

きっとできないけど、

 


でも、誰かにとっても私が

たまに差し込む光のような存在になれたらいいな

と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

沈黙の賛同者という言葉は

実は、ブログを書いている時に思いつきました。

 

 

反応があるともちろん嬉しいけど

でも、反応をくれる人というのは一部で

なんにもリアクションはないけど

読んではくれている、という人たちが

たくさんいます。

 

 


それが賛同者かどうかは分からないけど

賛同者と思い込むほうが生きやすいので

勝手に賛同者と名付けました。

 

 

 

 

 

自信のなさの塊みたいな私のような人間に言われても

あまり説得力はないかもしれないけど

沈黙の賛同者は、誰にでもいるよってことを

伝えたかったんです。

 

 

私はブログという形があったから

自分を応援してくれている人たちがいることを

たまたま分かることができたけれど

 

 

ブログを書いていなかったら、きっとそのことに

気付くことはできなかったと思うから。

 

 

 

ブログだけじゃなくて

自分を表現するもので且つ反応が見えるものを

していない人たちにも、沈黙の賛同者がいることを

伝えたかったんです。

 

 

 

 

(とは言ってもやっぱり、

言葉で伝えてくれるほうが嬉しいし

安心するんですけどね、☺笑)

 

 

 

 

 

こんなに素敵なあなたなのに

どうしてあなたはあなたのことをそんなに嫌いなの、

と思うことがあって

 

 

そんな人たちに向けて書いたのでした。